風のようにすうと音もなく表へ出ていきました。刻限はちょうど晩景の六つ下がりどきで、ぬんめりとやわらかく小鬢《こびん》をかすめる春の風は、まことに人の心をとろかすようなはだざわりです。その浮かれたつちまたの町を、右門は黒羽二重の素あわせに、蝋色鞘《ろいろざや》の細いやつを長めに腰へ落として、ひと苦労してみたくなるような江戸まえの男ぶりはすっぽりずきんに包みながら、素足にいきな雪駄《せった》を鳴らし、まがうかたなく道を柳原の方角へとったので、伝六はてっきりそれと、ますますはしゃいでいいました。
「だんなもこれですみにはおけませんね、べっぴんときくと、急におめかしを始めたんだからね。ちッちッ、ありがてえ! まったく、果報は寝て待てというやつだ。久しぶりで伝六さんの飲みっぷりのいいところを、べっぴんに見せてやりますかね。そのかえり道に、こもをかかえたお嬢さんをからかってみるなんて、どうみてもおつな寸法でがすね」
しかし、それがしだいにおつな寸法でなくなりだしたのです。柳原ならそれほど道を急ぐ必要はないはずなのに、右門はもよりのつじ待ち駕籠《かご》屋へやっていくと、黙ってあごでしゃくりました。
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