ますぜ」
「じゃ、そんなうわさも上っちゃいないんだな」
「さようで――また上らないのがあたりまえでしょうよ。さらわれたとすると、その人間はきっと帰ってこないんでしょうからね。だから、四日も五日もお上のお耳へ上らずにもいたんでしょうからね。しかし、ちょっとおつな話はございますよ。こいつあ人さらいの幽霊とは別ですがね、このごろじゅうから、あの土手の先へ、べっぴん親子のおでん屋が屋台を張るそうでしてね、なんでもその娘というのがすばらしい美人のうえに、人の評判では琉球《りゅうきゅう》の芋焼酎《いもしょうちゅう》だといいますがね、とにかく味の変わったばかに辛くてうまい変てこりんな酒を飲ませるっていうんで、大繁盛だそうですよ。どうでごわす、拝みに参りましょうか」
 つべこべと口早にしゃべるのを聞きながら、じっと目を閉じて、何ものかをまさぐるように考えていましたが、と、突然右門がすっくと立ち上がりながら外出のしたくにとりかかったので、伝六は早がてんしながらいいました。
「ありがてえ! じゃ、本気にべっぴんを拝みに出かけるんですかい」
 しかし、右門は押し黙ったままで万端のしたくをととのえてしまうと、風のようにすうと音もなく表へ出ていきました。刻限はちょうど晩景の六つ下がりどきで、ぬんめりとやわらかく小鬢《こびん》をかすめる春の風は、まことに人の心をとろかすようなはだざわりです。その浮かれたつちまたの町を、右門は黒羽二重の素あわせに、蝋色鞘《ろいろざや》の細いやつを長めに腰へ落として、ひと苦労してみたくなるような江戸まえの男ぶりはすっぽりずきんに包みながら、素足にいきな雪駄《せった》を鳴らし、まがうかたなく道を柳原の方角へとったので、伝六はてっきりそれと、ますますはしゃいでいいました。
「だんなもこれですみにはおけませんね、べっぴんときくと、急におめかしを始めたんだからね。ちッちッ、ありがてえ! まったく、果報は寝て待てというやつだ。久しぶりで伝六さんの飲みっぷりのいいところを、べっぴんに見せてやりますかね。そのかえり道に、こもをかかえたお嬢さんをからかってみるなんて、どうみてもおつな寸法でがすね」
 しかし、それがしだいにおつな寸法でなくなりだしたのです。柳原ならそれほど道を急ぐ必要はないはずなのに、右門はもよりのつじ待ち駕籠《かご》屋へやっていくと、黙ってあごでしゃくりました。
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