優しき歌 I・II
立原道造


[表記について]
本文中、底本のルビは「【ルビ】」の形式で処理した[#青空文庫でルビを表す《》は本文中に使われているので【】に変更]。また、ローマ数字はアルファベットの半角大文字で記入した。


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優しき歌 I


 燕の歌

   春来にけらし春よ春
     まだ白雪の積もれども
             ――草枕


灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる
とほい村よ
あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き
山羊【やぎ】が啼いて 一日一日 過ぎてゐた

やさしい朝でいつぱいであつた――
お聞き 春の空の山なみに
お前の知らない雲が焼けてゐる 明るく そして消えながら
とほい村よ

僕はちつともかはらずに待つてゐる
あの頃も 今日も あの向うに
かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると

やがてお前の知らない夏の日がまた帰つて
僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ
あのさびしい海を望みと夢は青くはてなかつたと




 うたふやうにゆつくりと‥‥


日なたに いつものやうに しづかな影が
こまかい模様を編んでゐた 淡く しかしはつきりと
花びらと 枝と 梢と――何もかも……
すべては そして かなしげに うつら うつらしてゐた

私は待ちうけてゐた 一心に 私は
見つめてゐた 山の向うの また
山の向うの空をみたしてゐるきらきらする青を
流されて行く浮雲を 煙を……

古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も
たのしくさへづつてゐた きく人もゐないのに
風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど
待ちうけてゐた 私の日々を優しくする人を
私は 見つめてゐた……風と 影とを……




 薊【あざみ】の花のすきな子に


 I 憩【やす】らひ
    ――薊のすきな子に――


風は 或るとき流れて行つた
絵のやうな うすい緑のなかを、
ひとつのたつたひとつの人の言葉を
はこんで行くと 人は誰でもうけとつた

ありがたうと ほほゑみながら。
開きかけた花のあひだに
色をかへない青い空に
鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、

気づかはしげな恥らひが、
そのまはりを かろい翼で
にほひながら 羽ばたいてゐた……

何もかも あやまちはなかつた
みな 猟人【かりうど】も盗人もゐなかつた
ひろい風と光の万物の世界であつた。




 II 虹の輪


あたたかい香【かを】りがみちて 空から
花を播き散らす少女の天使の掌【てのひら】が
雲のやうにやはらかに 覗いてゐた
おまへは僕に凭【もた】れかかりうつとりとそれを眺めてゐた

夜が来ても 小鳥がうたひ 朝が来れば
叢【くさむら】に露の雫が光つて見えた――真珠や
滑らかな小石や刃金【はがね】の叢に ふたりは
やさしい樹木のやうに腕をからませ をののいてゐた

吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く
朝のしめつたその風の……さうして
一日【ひとひ】が明けて行つた 暮れて行つた

おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに
もつと遠くの深い空や昼でも見える星のちらつきが
こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた




 III 窓下楽

昨夜は 夜更けて
歩いて 町をさまよつたが
ひとつの窓はとぢられて
あかりは僕からとほかつた

いいや! あかりは僕のそばにゐた
ひとつの窓はとぢられて
かすかな寝息が眠つてゐた
とほい やさしい唄のやう!

こつそりまねてその唄を僕はうたつた
それはたいへんまづかつた
昔の こはれた笛のやう!

僕はあわてて逃げて行つた
あれはたしかにわるかつた
あかりは消えた どこへやら?




 IV 薄 明


音楽がよくきこえる
だれも聞いてゐないのに
ちひさきフーガが 花のあひだを
草の葉をあひだを 染めてながれる

窓をひらいて 窓にもたれればいい
土の上に影があるのを 眺めればいい
ああ 何もかも美しい! 私の身体の
外に 私を囲んで暖く香【かをり】よくにほふひと

私は ささやく おまへにまた一度
――はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ
うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ!

やまない音楽のなかなのに
小鳥も果実【このみ】も高い空で眠りに就き
影は長く 消えてしまふ――そして 別れる




 V 民 謡

    ――エリザのために


絃【いと】は張られてゐるが もう
誰もがそれから調べを引き出さない
指を触れると 老いたかなしみが
しづかに帰つて来た……小さな歌の器【うつは】

或る日 甘い歌がやどつたその思ひ出に
人はときをりこれを手にとりあげる
弓が誘ふかろい響――それは奏でた
(おお ながいとほいながれるとき)

――昔むかし野ばらが咲いてゐた
野鳩が啼いてゐた……あの頃……
さうしてその歌が人の心にやすむと

時あつて やさしい調べが眼をさます
指を組みあはす 古びた唄のなかに
――水車よ 小川よ おまへは美しかつた




 鳥啼くときに

   式子内親王《ほととぎすそのかみやまの》によるNachdichtung


ある日 小鳥をきいたとき
私の胸は ときめいた
耳をひたした沈黙【しじま】のなかに
なんと優しい笑ひ声だ!

にほいのままの 花のいろ
飛び行く雲の ながれかた
指さし 目で追ひ――心なく
草のあひだに 憩【やす】んでゐた

思ひきりうつとりとして 羽虫の
うなりに耳傾けた 小さい弓を描いて
その歌もやつぱりあの空に消えて行く

消えて行く 雲 消えて行く おそれ
若さの扉はひらいてゐた 青い青い
空のいろ 日にかがやいた!




 甘たるく感傷的な歌


その日は 明るい野の花であつた
まつむし草 桔梗【ききやう】 ぎぼうしゆ をみなへしと
名を呼びながら摘んでゐた
私たちの大きな腕の輪に

また或るときは名を知らない花ばかりの
花束を私はおまへにつくつてあげた
それが何かのしるしのやうに
おまへはそれを胸に抱いた

その日はすぎた あの道はこの道と
この道はあの道と 告げる人も もう
おまへではなくなつた!

私の今の悲しみのやうに 叢【くさむら】には
一むらの花もつけない草の葉が
さびしく 曇つて そよいでゐる




 ひとり林に……


 I ひとり林に‥‥


だれも 見てゐないのに
咲いてゐる 花と花
だれも きいてゐないのに
啼いてゐる 鳥と鳥

通りおくれた雲が 梢の
空たかく ながされて行く
青い青いあそこには 風が
さやさや すぎるのだらう

草の葉には 草の葉のかげ
うごかないそれの ふかみには
てんたうむしが ねむつてゐる

うたふやうな沈黙【しじま】に ひたり
私の胸は 溢れる泉! かたく
脈打つひびきが時を すすめる




 II 真冬のかたみに‥‥

      Heinrich Vogeler gewidmet


追ひもせずに 追はれもせずに 枯木のかげに
立つて 見つめてゐる まつ白い雲の
おもてに ながされた 私の影を――
(かなしく 青い形は 見えて来る)

私はきいてゐる さう! たしかに
私は きいてゐる その影の うたつてゐるのを……
それは涙ぐんだ鼻声に かへらない
昔の過ぎた夏花のしらべを うたふ

《あれは頬白【ほほじろ】 あれは鶸【ひは】 あれは 樅【もみ】の樹 あれは
私……私は鶸 私は 樅の樹……》 こたへもなしに
私と影とは 眺めあふ いつかもそれはさうだつたやうに

影は きいてゐる 私の心に うたふのを
ひとすぢの 古い小川のさやぎのやうに
溢れる泪【なみだ】の うたふのを……雪のおもてに――




 浅き春に寄せて


今は 二月 たつたそれだけ
あたりには もう春がきこえてゐる
だけれども たつたそれだけ
昔むかしの 約束はもうのこらない

今は 二月 たつた一度だけ
夢のなかに ささやいて ひとはゐない
だけれども たつた一度だけ
そのひとは 私のために ほほゑんだ

さう! 花は またひらくであらう
さうして鳥は かはらずに啼いて
人びとは春のなかに笑みかはすであらう

今は 二月 雪の面【おも】につづいた
私の みだれた足跡……それだけ
たつたそれだけ――私には……

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優しき歌 II


 序の歌


しづかな歌よ ゆるやかに
おまへは どこから 来て
どこへ 私を過ぎて
消えて 行く?

夕映が一日を終らせよう
と するときに――
星が 力なく 空にみち
かすかに囁きはじめるときに

そして 高まつて むせび泣く
絃【げん】のやうに おまへ 優しい歌よ
私のうちの どこに 住む?

それをどうして おまへのうちに
私は かへさう 夜ふかく
明るい闇の みちるときに?




 I 爽やかな五月に


月の光のこぼれるやうに おまへの頬に
溢れた 涙の大きな粒が すぢを曳いたとて
私は どうして それをささへよう!
おまへは 私を だまらせた……

《星よ おまへはかがやかしい
《花よ おまへは美しかつた
《小鳥よ おまへは優しかつた
……私は語つた おまへの耳に 幾たびも

だが たつた一度も 言ひはしなかつた
《私は おまへを 愛してゐる と
《おまへは 私を 愛してゐるか と

はじめての薔薇が ひらくやうに
泣きやめた おまへの頬に 笑ひがうかんだとて
私の心を どこにおかう?




 II 落葉林で


あのやうに
あの雲が 赤く
光のなかで
死に絶えて行つた

私は 身を凭【もた】せてゐる
おまへは だまつて 脊を向けてゐる
ごらん かへりおくれた
鳥が一羽 低く飛んでゐる

私らに 一日が
はてしなく 長かつたやうに

雲に 鳥に
そして あの夕ぐれの花たちに

私らの 短いいのちが
どれだけ ねたましく おもへるだらうか




 III さびしき野辺


いま だれかが 私に
花の名を ささやいて行つた
私の耳に 風が それを告げた
追憶の日のやうに

いま だれかが しづかに
身をおこす 私のそばに
もつれ飛ぶ ちひさい蝶らに
手をさしのべるやうに

ああ しかし と
なぜ私は いふのだろう
そのひとは だれでもいい と

いま だれかが とほく
私の名を 呼んでゐる……ああ しかし
私は答へない おまへ だれでもないひとに




 IV 夢のあと


《おまへの 心は
わからなくなつた
《私の こころは
わからなくなつた

かけた月が 空のなかばに
かかつてゐる 梢のあひだに――
いつか 風が やんでゐる
蚊の鳴く声が かすかにきこえる

それは そのまま 過ぎるだらう!
私らのまはりの この しづかな夜

きつといつかは (あれはむかしのことだつた)と
私らの こころが おもひかえすだけならば! ……

《おまへの心は わからなくなつた
《私のこころは わからなくなつた




 V また落葉林で


いつの間 もう秋! 昨日は
夏だつた……おだやかな陽気な
陽ざしが 林のなかに ざわめいてゐる
ひとところ 草の葉のゆれるあたりに

おまへが私のところからかへつて行つたときに
あのあたりには うすい紫の花が咲いてゐた
そしていま おまへは 告げてよこす
私らは別離に耐へることが出来る と

澄んだ空に 大きなひびきが
鳴りわたる 出発のやうに
私は雲を見る 私はとほい山脈【やまなみ】を見る

おまへは雲を見る おまへはとほい山脈を見る
しかしすでに 離れはじめた ふたつの眼【まな】ざし……
かへつて来て みたす日は いつかへり来る?




 VI 朝 に


おまへの心が 明るい花の
ひとむれのやうに いつも
眼ざめた僕の心に はなしかける
《ひとときの朝の この澄んだ空 青い空

傷ついた 僕の心から
棘【とげ】を抜いてくれたのは おまへの心の
あどけない ほほゑみだ そして
他愛もない おまへ
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