夏秋表
立原道造


     その一

 私はふたつのさびしい虫のいのちと交感を持った。

 信濃路に夏の訪れのあわただしい日、私は先生の山荘の庭に先生とならんで季節の会話のひまにその虫の声を聞いたのである。春蝉と言った。七月なかば、五日か七日をかぎって、林のなかに啼いて、あとは行方も知らない。その日々の高原の空にはほととぎす、やぶうぐいす、閑古鳥などの唄がひびいていた。そのなかに、春蝉は彼のかなしい感傷の小曲をうたいあげたのである。
 夏のあいだ、私は忘れるとなしに彼のことを忘れていた。幾たびも物がなしい夕ぐれに出会い、そのようなおりに私は彼のことを思い出さねばならなかった筈である。しかし私はすっかり忘れ果てていた。
 やがて夏も逝き、秋も定まった一日、私はふたたび先生の庭に客となった。そのとき先生は虫籠を示され、その虫を草ひばりと教えられ、その姿に「仄か」という言葉で註せられることを怠られなかった。座には高名な抒情の小説をものされる人が居あわせ、先生のその紹介も実はその小説家に向いてであったのだが、私はそれを盗んだ。夜に入って、それがその年の夏のおわりの一夜となったのだが、私は先
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