た。
「やっぱり、ねえ。」
 と、朝倉夫人は、いかにも何かに感動したように、名簿から眼をはなし、
「ほかの方たちとは、どこかにまるで感じのちがったところがありましたわ。」
「ぼく、名前がわかっていましたので、とくべつ注意していたんですが、あれですいぶんこまかいことに気のつく人のようですね。」
「そう? 何かありまして?」
「メモ用の紙が一枚、机の足のところにおちていたのを、来るとすぐひろいあげて、ぼくに渡《わた》してくれたんです。」
「そう? あたし、気がつかなかったわ。」
「その時の様子が、ちっともわざとらしくないんです。自分ではそんなことをしているのをまるで意識していないんじゃないかと思われるほど無表情だったんです。ぼく、それでよけい印象に残りました。」
 朝倉夫人は、何度もうなずきながら、
「どうも、そんなたち[#「たち」に傍点]の人らしいわね。白鳥会でいうと、大沢《おおさわ》さんみたいな人ではないかしら。」
「どこかに共通したところがあるかもしれませんね。見た感じは、たしかに似ていますよ。」
「だけど、――」
 と、朝倉夫人はしばらく考えてから、
「大沢さんのまじめさとは、ちょっとちがったところがあるようにも思えるわ。もっと自然なまじめさ、といったものが感じられるんではありません?」
「自然なまじめさ――」
 次郎は口の中で夫人の言葉をくりかえした。
「こんなふうに言いますと、大沢さんのまじめさは不自然だということになりそうですけれど、それは悪い意味で言っているのじゃありませんの。ただ、大沢さんのまじめさには、いつも意志がはっきり出ていますわね。いい意味の政治性と言いますか、それが人がら全体にはっきり出ていて、無意識にものを言ったり、したりすることなんか、めったにないでしょう。」
「なるほど、そう言われると、大河という人には、政治性といったものがまるでなさそうに思えますね。」
 二人は、その時めいめいに、背のひくい、肩《かた》はばの広い、頬《ほお》ひげを剃《そ》ったあとの真青《まっさお》な、五分|刈《が》りの、そして度の強い近眼鏡をかけた丸顔の男が、のっそりと玄関にはいって来たときの光景を思いうかべていた。かれは黒の背広に黒の外套《がいとう》を重ねていたが、まず肩にかけていた雑嚢《ざつのう》をはずし、それからゆっくりと外套をぬいで、ていねいに頭をさげ、次郎に向かって、いくぶんさびのある、ひくい、しかし底力《そこじから》のこもった声で、「千葉県の大河無門ですが」と言い、それから次郎にわたされた塾生名簿をすぐその場でひらいて、自分の名前のところを念入りに見たあと、紹介《しょうかい》された朝倉夫人のほうにおもむろに眼を転じたのであった。
「白鳥会の仲間にも、これまでの塾生にも、あんな型の人はひとりもいなかったようですが、その点から言って、今度の塾生活には、とくべつの意味がありそうで、愉快《ゆかい》ですね。」
「そう。やっぱり一人でも変わった目ぼしい人がいると、それだけ楽しみですわね。……もっとも、そんなことに大きな期待をかけるのは、平凡人《へいぼんじん》の共同生活をねらいにしているこの塾では邪道《じゃどう》だって、先生にはいつも叱《しか》られていますけれど。」
「しかし、先生だって、塾生の粒《つぶ》があまり思わしくないと、やはりさびしそうですよ。」
「それは、何といってもねえ。」
 と、朝倉夫人は微笑した。そして、もう一度名簿をくって、自分の印象に残っているほかの顔をさがしているらしかったが、急に首をふって、
「だけど、こんなこと、いけないことね。受け付けたばかりの印象で、さっそく塾生の品定《しなさだ》めをはじめるなんて。」
 次郎は頭をかいて苦笑した。朝倉夫人はしんみりした調子になり、
「大河さんていう方、無意識に紙ぎれをひろってくだすったとしても、あたしたち、ただその無意識ということだけを問題にしてはいけないと思いますわ。そうなるまでには、どんなに意志をはたらかせ、どんなに苦労をなすったかしれませんものね。」
 次郎は、なぜか顔を赤らめ、眼を膝《ひざ》におとしていた。
 しばらくして玄関に足音がしたが、それは朝倉先生が空林庵《くうりんあん》からもどって来たのだった。
「みんな無事にそろったかね。」
 先生は、事務室をのぞいてそう言うと、そのまま塾長室にはいって行った。二人もすぐそのあとからついて行って、何かと報告した。
 先生は到着のしるしのついた名簿に眼をとおしながら、
「大河も来たんだね。何室にはいったんだい。」
「第五室です。いろんな関係から、それが一番よかりそうに思ったものですから。」
 次郎は、そう言って、室割《へやわ》りを書いた紙を先生に渡した。それには、大河の名を何度も書いたり消したりしたあとがあった。
「大河の室割りには、ずいぶん苦心したらしいね。それほど神経に病《や》むこともなかったんだが。……しかし、まあ、どちらかというと、室長におされたりする可能性の少ないところがいいだろう。」
「ええ、それを考えまして、第五室には、大河より一つ年上で、郡の連合団長をやっている人を割り当てておいたんです。」
「なるほど。」
 朝倉先生は、何かおかしそうな顔をしながら、うなずいた。
 三人は、それから、そろって各室を一巡《いちじゅん》した。朝倉先生は、室ごとに、入り口をはいると、立ったままで無造作《むぞうさ》に言った。
「私、朝倉です。……こちらは私の家内《かない》で、寮母《りょうぼ》といったような仕事をしてもらうんだが、君らに、これから小母《おば》さんとでも呼んでもらえば、よろこぶだろう。……あちらの若い人は、本田君。君らの仲間の一人だと思ってもらえばいい。」
 それから、
「みんな汽車でつかれただろう。今晩は、宿屋にでも泊《と》まったつもりで、のんきにくつろぐんだな。もっとも、郷里にはがきだけはすぐ出しておくがいい。」
 そして、みんなが居《い》ずまいを正し、恐縮《きょうしゅく》しているような顔を、にこにこしながら見まわしたあと、すぐ室を出た。
 その日はそれっきりで、べつに何の行事もなかった。塾生たちは、朝倉夫人や次郎をはじめ、給仕の河瀬や、炊事夫《すいじふ》の並木夫婦《なみきふうふ》に何かと世話をやいてもらって、入浴をしたり、広間に集まって食事をしたり、各室で大火鉢《おおひばち》をかこみながら、各地のおみやげを出しあって茶をのんだりするだけのことだった。就寝《しゅうしん》の時刻についても、十時半になったらきちんと電燈《でんとう》を消すことになっているから、そのつもりで、という注意が与《あた》えられただけだった。何だか塾堂に来ているというより、修学旅行で宿屋に泊まっているという感じのほうが強かった。そして、そうした意味での親愛感なら、各室ごとには、もうたいていできあがってしまっていたのである。
 それでも、いざ就寝という時になって、どの室にもちょっとした混雑《こんざつ》が生じた。というのは、十|畳《じょう》の部屋に大火鉢一つと六人分の机とをすえ、そこに六人分の夜具を都合よくのべるのには、かなりの工夫と協力を必要としたからである。
 混雑は申し合わせたように十時ごろからはじまった。それまで、塾生の一人一人に関係したことでは、かゆいところに手がとどくように世話をやいていた朝倉夫人も次郎も、なぜかこの混雑には何の助言も与えず、事務室から、遠目に成り行きを見まもっているといったふうであった。そして、十時半になると、次郎は、予告どおり、一分の遅延《ちえん》もなく廊下《ろうか》のスウィッチをひねり、塾生たちの室の電燈を全部消してしまった。電燈を消されて悲鳴をあげた室も二三あった。
 次郎は、しかし、頓着《とんちゃく》しなかった。かれは電燈を消すまえに、廊下をあるいて、それとなく各室の様子をのぞいてまわったが、どの室よりも早く室員が寝床《ねどこ》についていたのは、第五室であった。そして、大河無門は、その一番はいり口のところに、その大きないが栗頭《ぐりあたま》を横たえ、近眼鏡をかけたまま、しずかに眼をつぶっていたのであった。
 次郎が、それを、その晩の一つの意味深いできごととして、朝倉夫人に報告したことはいうまでもない。
          *
 あくる日は、いよいよ第十回の入塾式だった。二月はじめの武蔵野《むさしの》の寒さはきびしかったが、空は青々と晴れており、地は霜《しも》どけでけぶっていた。
 十時の開式までは、塾生たちはやはり自由に過ごすことになっていた。朝食をすますと、彼等《かれら》は日あたりのいい窓ぎわにかたまって雑談をしたり、事務室におしかけて来て新聞を読んだりしていた。
 八時をすこしすぎたころに、けたたましく事務室の電話のベルが鳴った。次郎が出て見ると、田沼《たぬま》理事長からだった。
「朝倉先生は?」
「塾長室においでです。」
「じゃあ、そちらにつないでくれたまえ。」
 次郎は、何か急用らしいが今ごろになって何事だろうと思いながら、線を塾長室にきりかえた。
 すると、まもなく、塾長室から朝倉先生の声がきれぎれにきこえて来た。
「はあ、なるほど。……それは、むろん、こばむわけにはいきますまい。……ええ、ええ、……承知いたしました。いたし方ないでしょう。……すると、こちらで予定していた来賓《らいひん》祝辞は、……ああ、そうですか。では、時間の都合を見まして適当にやることにいたしましょう。……え? ええ。やはりずいぶん気にやんでいるようです。私からは何も話してはいませんけれど、あれっきり荒田《あらた》さんの顔が見えないので、何かあると思っているんでしょう。はっはっはっ。……ええ。……ええ。……ちょっとむきになるところがありますが、ご心配になるほどのこともありますまい。……ええ、むろん私からも十分注意はしておきます。……はい、では、お待ちしています。」
 電話がすむと、次郎は、すぐ自分から塾長室にはいって行って、たずねた。
「田沼先生は何かおさしつかえではありませんか。」
「いいや、まもなくお見えになるだろう。」
 朝倉先生は、何でもないように答えたあと、次郎の顔を見て微笑《びしょう》しながら、
「今日は、変わった来賓《らいひん》が見えるらしいよ。」
「荒田さん……じゃありませんか。」
「荒田さんもだが、陸軍省からだれか見えるらしい。」
 次郎は、はっとしたように眼を見張り、しばらくおしだまって突《つ》っ立っていたが、
「田沼先生から案内されたんですか。」
 と、いかにも腑《ふ》におちないというような顔をしてたずねた。
「いや、そうではないらしい。荒田さんから、今朝急に、そんな電話が田沼先生のほうにかかって来たらしいんだ。」
 次郎はまただまりこんだ。朝倉先生は、わざと次郎から眼をそらしながら、
「それで、今日の来賓祝辞だが、時間の都合では、その陸軍省の方だけにお願いすることになるかもしれないから、そのつもりでいてくれたまえ。」
「軍人に祝辞をやらせるんですか。」
 次郎はもうかなり興奮していた。
「礼儀《れいぎ》として、私のほうからお願いすべきだろうね。」
「しかし塾の方針と矛盾《むじゅん》するようなことを言うんじゃありませんか。」
「自然そういうことになるかもしれない。しかし、それはしかたがないだろう。」
「先生!」
 と、次郎は一歩朝倉先生のほうに乗り出して、
「先生は、自然そういうことになるかもしれないなんて、のんきなことをおっしゃいますが、ぼくは、それぐらいのことではすまないと思うんです。」
「どうして?」
「これは計画的でしょう。」
「計画的?」
「ええ、荒田さんの卑劣《ひれつ》な計画にちがいないんです。荒田さんは、軍の名で塾の指導精神をぶちこわそうとしているんです。」
 次郎の顔は青ざめていた。朝倉先生は、きびしい眼をして次郎を見つめていたが、
「そんな軽率《けいそつ》なことは言うものではない。」
 と、いきなり、こぶしで卓をたたいて、叱《しか》りつけた。しかし、次郎はひるまなかった。
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