「軽率ではありません。これはまちがいのないことです。ぼくは断言します。」
「かりにまちがいのないことだとしても、そんなことを言って、何の役にたつんだ。」
「ぼくは、祝辞をやらせるのは絶対にいけないと思うんです。それをやめていただきたいんです。」
「それは不可能だ。」
「こちらからお願いさえしなけりゃあ、いいんでしょう。」
「そういうわけにはいかないよ。陸軍省からわざわざやって来るのに、知らん顔はできない。それではかえって悪い結果になるんだ。」
「すると、おめおめと降伏《こうふく》するんですか。」
 朝倉先生の眼は、いよいよきびしく光り、しばらく沈黙《ちんもく》がつづいた。しかし、そのあと、先生の唇《くちびる》をもれた言葉の調子は、気味わるいほど平静だった。
「本田は、友愛塾の精神が、だれかの祝辞ぐらいで、わけなくくずれてしまうような、そんな弱いものだと思っているのかね。」
 先生の眼には次第《しだい》に微笑さえ浮《う》かんで来た。次郎はこれまでの勢いに似ず、すっかり返事にまごついた。
 すると、先生は、今度は、次郎をふるえあがらせるほどの激《はげ》しい調子で、
「血迷ったことを言うのも、たいていにしたらどうだ。聞き苦しい。」
 次郎は、これまで、朝倉先生に、こんなふうな叱り方をされた記憶《きおく》がまるでなかった。かれは、ながい間の先生との人間的つながりが、それで断絶でもしたかのような気になり、思わず、がくりと首をたれた。
 朝倉先生は、しかし、すぐまた平静な調子にかえって、
「いつも言うとおり、今は日本中が病気なんだから、友愛塾だけがその脅威《きょうい》から安全でありうる道理がないんだ。病菌《びょうきん》はこれからいくらでもはいって来るだろう。いや、これまでだって、すいぶんはいって来ていたんだ、塾生自身が、ほとんど一人残らず、病菌の保有者だと言ってもいいんだからね。今日は、病菌がすこし大がかりに持ちこまれるというにすぎないんだ。むろん、大がかりな病菌の持ち込みは、できれば拒絶《きょぜつ》するにこしたことはない。しかし、拒絶どころか、表面だけでもいちおうはありがたく頂戴《ちょうだい》しなければならないところに、実は、現在の日本の最大の病根があるんだよ。だから、おたがいとしては、病菌はこれからいくらでもはいって来るものだと覚悟《かくご》して、その覚悟のもとに、病菌を無力にする工夫をこらすほかに道はない。むろんそれは、厄介《やっかい》なことではあるさ。しかし厄介なだけに、うまくその始末がつけば、それだけ塾の抵抗力《ていこうりょく》をまし、かえって健康が増進されるとも言えるんだ。とにかく何事も事上|錬磨《れんま》だよ。その意味で、私は、今日はいい機会にめぐまれたとさえ思っている。こんなことを言うと、君はそれを私の負け惜《お》しみだと思うかもしれんが、しかし、避《さ》けがたいものは避けがたいものとして、平気でそれを受け取って、その上でそれに対処《たいしょ》するのが、ほんとうの自由だよ。それがほんとうに生きる道でもあるんだ。随所《ずいしょ》に主となる。そんな言葉があったね。じたばたしてもはじまらん。わかるかね、私のいっていることが?」
「わかります。」
 次郎はかなり間をおいて答えた。かれは、しかし、まだ先生の気持ちを正しく理解していたわけではなかった。事上錬磨という言葉を通じて、権力に対する反抗の機会を暗示《あんじ》されたかのような気持ちでいたのである。
 朝倉先生は、次郎の心の動きを見とおすように、その澄んだ眼をかれの顔にすえていたが、急に笑顔になって、
「そこで、変なことをきくようだが、君は今日、軍からの来賓に対して、どんな態度で接するつもりかね。」
 これは、次郎にとって、なるほど変な質問にちがいなかった。かれは、これまで、来賓に対する態度のことまで先生に注意をうけたことがなかったのである。かれはいかにも心外《しんがい》だという顔をして、
「ぼく、べつに何も考えていないんです。あたりまえにしていれば、いいんでしょう。」
「あたりまえ? うむ。あたりまえであれば、むろんそれでいいさ。そのあたりまえが、友愛塾の精神にてらしてあたりまえであればね。」
 次郎は虚《きょ》をつかれた形だった。朝倉先生はたたみかけてたずねた。
「まさか、君は、あたらずさわらずの形式的な丁寧《ていねい》さを、あたりまえだと考えているんではないだろうね。」
 次郎は眼をふせた。しばらく沈黙がつづいたあと、朝倉先生は、しんみりした調子で、
「今さら、君にこんなことを言う必要もないと思うが、友愛塾は、どんな相手に対しても冷淡《れいたん》であってはならないんだ。あたたかな空気、それが塾の生命だからね。お互《たが》いは、それで世に勝とうとしている。勝てるか勝てないかは、むろん予測《よそく》できない。しかし、それで勝とうとする意志だけは失ってはならないんだ。やはり事上錬磨だよ。今日のような場合に、それを忘れるようでは、何のための友愛塾だか、わからなくなる。」
 次郎の耳には、事上錬磨という言葉が異様にひびいた。前の場合には、権力に対する反抗の機会を暗示されたように受け取っていたが、今度の場合は、明らかにその反対のことを意味していたからであった。かれは、しかし、もう何も言うことができなかった。頭も気持ちも、めちゃくちゃに混乱していたのである。
「よくわかりました。気をつけます。」
 かれは、表面|素直《すなお》にそう言って塾長室を出た。そして講堂に行き、今日の式次第《しきしだい》をチョークで黒板に書いたが、いつもは何の気なしに書く「来賓祝辞」の四字が、呪文《じゅもん》のように心にひっかかった。
 式次第を書きおわると、かれは事務室にもどり、新聞を読んでいた塾生たちにまじってストーヴを囲んだ。しかし気持ちはやはりおちつかなかった。
(どんな人をでも、平和であたたかい空気の中に包みこむ、それが塾の理想でなければならないことは、むろんよくわかっている。だが、そのためには、実際にどうふるまええばいいのか。先生は、まさか、ぼくに追従笑《ついしょうわら》いをさせようとしていられるのではあるまい。自然の感情をいつわるところに、何の平和があり、何のあたたかさがあろう。いっさいに先んじて大切なのは、自分をいつわらないことではないのか。)
 そうした疑問が、胸にわだかまって、かれは塾生たちと言葉をかわす気にもなれないのだった。
 そのうちに、ぼつぼつ来賓が見えだした。田沼理事長も、いつもよりは少し早目に自動車で乗りつけた。次郎は、出迎《でむか》えながら、それとなくその顔色をうかがったが、友愛塾の精神を象徴《しょうちょう》するかのような、その平和であたたかな眼には、微塵《みじん》のくもりもなく、そのゆったりとしたものごしには、寸分のみだれも見られなかった。次郎は、ほっとした気持ちになりながらも、一方では、何かにおしつけられるような、変な胸苦しさを覚えた。
 最後に二台の自動車が、同時に乗りつけた。その一つは、荒田老のであり、もう一つは、星章《せいしょう》を光らした大型の陸軍用であった。荒田老は、例によって鈴田《すずた》に手をひかれながら、黒眼鏡の怪奇《かいき》な顔をあらわした。陸軍用の車からは、中佐《ちゅうさ》の肩章《けんしょう》をつけた、背の高い、やせ型の、青白い顔の将校が出て来たが、しばらく突っ立って、すこしそり身になりながら、玄関前の景色を一わたり見まわした。
 その間に、鈴田が次郎に近づいて来て、
「田沼さんはもうお出でになっているだろうね。」
「はあ、見えています。」
「じゃあ、陸軍省から平木中佐がお見えになったと、通じてくれたまえ。荒田さんから今朝ほど電話でお知らせしてあるんだから、おわかりのはずだ。」
 次郎は、横柄《おうへい》な口のきき方をする鈴田に対して、いつになく憤《いきどお》りを感じ、返事をしないまま塾長室に行った。
 塾長室の戸をあけると、田召理事長が、すぐ自分から言った。
「陸軍省のかただろう。こちらにお通ししなさい。」
 次郎は玄関にもどって来たが、やはりだまったままスリッパをそろえた。
「通じたかね。」
 鈴田が次郎をにらみつけるようにして言った。
「ええ、通じました。塾長室におとおりください。」
 次郎の返事もつっけんどんだった。
 鈴田が荒田老の手をひいて先にあがった。平木中佐は靴《くつ》をぬぎかけていたが、鈴田に向って、
「今日の式には、勅語《ちょくご》の捧読《ほうどく》があるんじゃありませんか。」
「ええ、それはむろんありますとも。……」
「じゃあ、靴はぬぐわけにはいかないな。ほかの場合はとにかくとして、勅語捧読の場合に軍人が服装規程にそむくわけにはいかん。」
「そのままおあがりになったら、いかがです。かまうもんですか。」
「かまうも、かまわんも、それよりほかにしかたがない。」
 平木中佐は、片足ぬいでいた長靴《ちょうか》を、もう一度はいた。
 鈴田は、その時、じろりと次郎の顔を見たが、その眼はうす笑いしていた。
 その間、荒田老は、黒眼鏡をかけた顔を奥《おく》のほうに向け、黙々《もくもく》として突っ立っていた。事務室にいた塾生たちは、入り口の近くに重なりあうようにして、その光景に眼を見はっていた。
 やがて中佐は、荒田老と鈴田のあとについて、ふきあげた板張りの廊下《ろうか》に長靴の拍車《はくしゃ》の音をひびかせながら、塾長室のほうに歩きだした。
 次郎は、ちょっとの間、唇をかんでそのうしろ姿を見おくっていたが、急にあわてたように、三人の横を走りぬけ、塾長室のドアをあけてやった。

   四 入塾式の日

 式は予定どおり、十時きっかりにはじまった。
 来賓席《らいひんせき》の一番上席には、平木中佐が着席することになった。中佐は最初、その席を荒田老にゆずろうとした。しかし荒田老は、

「今日は、あんたが主賓《しゅひん》じゃ。」
 と、叱《しか》るように言って、すぐそのうしろの席にどっしりと腰《こし》をおろし、それからは中佐が何と言おうと、木像のようにだまりこんで、身じろぎもしなかった。中佐はかなり面くらったらしく、すこし顔をあからめ、何度も荒田老に小腰《こごし》をかがめたあと、いかにもやむを得ないといった顔をして席についたが、それからも、しばらくは腰が落ちつかないふうだった。
 しかし、式がいよいよはじまるころには、もう少しもてれた様子がなく、塾生《じゅくせい》たちをねめまわすその態度は、むしろ傲然《ごうぜん》としていた。
 来賓席の反対のがわには、田沼《たぬま》理事長、朝倉塾長、朝倉夫人の三人が席をならべていた。次郎はそのうしろに位置して、式の進行係をつとめていたが、かれの視線は、ともすると平木中佐の横顔にひきつけられがちだった。かれの眼《め》にうつった中佐の顔には、多くの隊付き将校に見られるような素朴《そぼく》さが少しもなかった。その青白い皮膚《ひふ》の色と、つめたい、鋭《するど》い眼の光とは、むしろ神経質な知識人を思わせ、また一方では、勝ち気で、ねばっこい、残忍《ざんにん》な実務家を思わせた。次郎は、中佐の横顔を何度かのぞいているうちに、子供のころ、話の本で見たことのある、ギリシア神話のメデューサの顔を連想していた。
 中佐の眼は、理事長と塾長とが式辞をのべている間、塾生のひとりびとりの表情を、注意ぶかく見まもっているかのようであった。式辞の趣旨《しゅし》は、二人とも、いつもとほとんど変りがなかった。ただ理事長は、つぎのような意味のことを、特に強張した。
「国民の任務には、恒久的《こうきゅうてき》任務と時局的任務とがある。このうち、時局的任務は、時局そのものが、あらゆる機会に、あらゆる機関を通じて、声高く国民にそれを説いてくれるので、なに人《びと》もそれに無関心であることができない。ところが、恒久的任務のほうは、時局が緊迫《きんぱく》すればするほど、とかく忘れられがちであり、現に今日のような時代では、何が真に恒久的任務であるかさえ
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