生たちのため精進《しょうじん》料理をこしらえるためである。老師はその粗末《そまつ》な黒い法衣の上にたすきをかけ、手伝いに来た近所のおかみさんたち二三人を相手に、自分でも、こま鼠《ねずみ》のように台所を走りまわるのだった。塾生たちが、その様子を見て手伝いに行くと、
「おうお、こりゃあ助かる。こりゃあ助かる。でも、お客さまに手伝うてもろうては、仏さまに叱《しか》られるがな。」
と、いかにもうれしそうな顔をする。こんなふうだから、いつの旅行の時も、老師は塾生たちにとって忘れがたい人物の一人になるのだったが、とりわけ今度の場合は、杉山部落で賢者のような風貌《ふうぼう》をした片平翁に接した直後だっただけに、対照的な意味でも、ふかく印象づけられたらしかった。
その夜は、精進料理に舌つづみをうったあと、清水の青年たちとおそくまで座談会をやったが、ここにも塾の修了生が二名ほどいて、友愛塾音頭を、一般《いっぱん》の青年たちにも普及《ふきゅう》させていたので、最後にはみんなでそれをおどり、一座に加わっていた老師を子供のように喜ばせたのであった。
第三日目は人間的|交渉《こうしょう》をさけて、ひたすら自然に親しもうという計画だった。未明に鉄舟寺を辞すると、まず竜華寺《りゅうげじ》の日の出の富士《ふじ》を仰《あお》ぎ、三保《みほ》の松原《まつばら》で海気を吸い、清水駅から汽車で御殿場《ごてんば》に出て、富士の裾野《すその》を山中|湖畔《こはん》までバスを走らせた。山中湖畔の清渓寮《せいけいりょう》は日本青年館の分館で、全国の青年に親しまれている山小屋風な建物である。ここに旅装《りょそう》をとくと、朝倉先生はみんなに言った。
「自然に親しむには、孤独《こどく》と沈黙《ちんもく》に限るよ。明日ここを出発するまでは、できるだけおたがいにそうした気持ちですごしたいものだね。」
次郎はその言葉をきいた時、何か悲しい気がした。
かれは実を言うと、過去二日半をほとんど孤独と沈黙の中ですごして来ていたのだった。心の中では大河に対して道江の問題を打ちあける機会をたえずねらっていながら、そして一度ならずその機会をつかみながら、ついに言いだしそびれていたかれは、それゆえに他の場合にも、とかく孤独と沈黙に自分自身を追いやっていたわけだったのである。こうして今となっては山中湖畔の半日だけが、かれにとって最後の機会になっていたが、その最後の機会に、朝倉先生のそんな言葉をきいたので、それがいかにも自分を運命的に追いつめるように聞こえたのである。
かれは、しかし、つぎの瞬間《しゅんかん》には、かえってその言葉を機縁《きえん》に、自分を勇気づけていた。寮の前庭で中食の弁当をすましたかれは、すぐ大河をさそって、落葉松《からまつ》の林をくぐり、湖面のちらちら見える空地《あきち》に腰をおろした。木かげにはまだ雪がところどころ溶《と》け残っていたが、陽《ひ》ざしはしずかであたたかだった。かれはいくぶん恥《は》じらいながら、同時にいくぶんの自負心をもって、道江の問題に対して自分のとった態度を説明しながら、いっさいを告白した。大河は、次郎が話している間、眼をつぶっているきりだった。口もきかず、うなずくことさえしなかった。そして話がおわってからも、次郎を気味わるがらせるほどだまりこくっていたが、やがて眼をひらくと、言った。
「ぼくが同じ立場にいたとしたら、ぼくはおそらく無遠慮《ぶえんりょ》に恋《こい》を打ちあけたでしょう。それがぼくにとっては自然なような気がします。むろん拒絶《きょぜつ》されたら、その時にはさっぱりあきらめますがね。もっとも、あきらめるのがぼくにとってはたして自然だかどうだか、それは実際にその場合になってみないとわかりませんが。」
それから、また、しばらくして、
「朝倉先生だと、どういう態度に出られますかね。今度の友愛塾の問題で見ると、恋《こい》を忍《しの》んでいられるようでもあるし、さっぱりとあきらめていられるようでもあるし、ちょっと見当がつきませんね。」
次郎の耳には、大河の言葉の調子が、いかにもそらとぼけた、情味のないもののようにきこえた。かれは、しかし、そのために茶化されているという気にはちっともならなかった。大河の眼は、人を茶化すにしては、あまりにも深い光をたたえていたのである。次郎はおびえたようにその眼をうかがいながら、つぎの言葉を待った。すると大河はまた例のにっとした笑顔《えがお》をして言った。
「ぼくは、しかし、あなたのとった態度が不自然だったと言っているのではありませんよ。あなたにはそれよりほかに行き道がなかったとすれば、それがおそらくあなたにとっては自然だったでしょう。ぼくは、人間の心の自然さというものは、その人のつきつめた誠意の中にあると思うんです。」
次郎はほうっと深い息をした。それは安堵《あんど》の吐息《といき》ともつかず、これまで以上の深い苦悶《くもん》の吐息ともつかないものだった。
二人はやがて立ちあがって、言い合わしたように富士を仰《あお》いだ。どちらからも口をきかなかった。富士は、三保で見たすらりとした姿とはまるでちがった、重々しい沈黙と孤独の姿を、青空の下に横たえていた。
次郎は、その沈黙と孤独の奥に、自分の恋と自分をとりまく時代とが蛇《へび》のようにもつれあい、すさまじく鳴動《めいどう》して、自分の運命を刻々にゆさぶっているのを、まざまざと感じるのであった。
――――――――――
次郎の生活記録は、こうしていろいろの問題を残したままその第五部を終わることになるが、この記録は、見ようでは、かれの生活記録と言うよりは、むしろ、満州事変後急速に高まりつつあったファッシズムの風潮に対する、一小私塾のささやかな教育的|抵抗《ていこう》の記録であり、その精神の解明である、と言ったほうが適当であるのかもしれない。少なくとも、その叙述《じょじゅつ》の半ばに近い部分がそれに費されていることは、否《いな》みがたいことのように思える。しかし、この私塾での三年あまりの次郎の生活が、道江の問題とからんで、かれの人間形成に及《およ》ぼした影響《えいきょう》は決して小さなものではなかったし、また、それがかれのこれからの生活に対して、よかれあしかれ、重大な意義を持つであろうこともたしかである。その点から言って、この一篇《いっぺん》は、全体として、やはり次郎の生活記録であるにはちがいないのである。
実をいうと、かれの生活記録としては、この記録のほかに、もっとたしかな記録があることを私は知っている。それは次郎自身の日記である。もし、それをそのままここに収録することができれば、この記録の大部分は無用になったかもしれないが、次郎の現在の気持ちとしては、おそらくその公表を欲していないであろう。で、今は、この記録の不備を補《おぎな》う意味で、わずかにその数節を読者に提供することだけで満足したい。左に抜《ぬ》き書《が》きしたのは、かれがいよいよ朝倉先生夫妻とともに空林庵《くうりんあん》を引きあげることになった前日あたりに書かれたものらしいが、そのころの、明るいとも暗いともつかない、かれの心境をうかがうには、いい資料になるだろうと思うのである。
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「ぼくは、中学一年にはいって間もないころ、しみじみと人間の運命というものの不思議さに思い到《いた》ったことがあった。それは、朝倉先生にはじめて接することができた時の喜びの原因を、それからそれへと過去にさかのぼって考えていくうちに、ついに、ぼくがお浜《はま》の家に里子《さとご》にやられたのが、そのそもそもの原因であることに気がついた時であった。ぼくは今またあらためて同じようなことを考えないではいられない。というのは、ぼくが中学を追われたのも、友愛塾の助手になったのも、また、田沼《たぬま》先生の人格にふれ、大河無門という友人を得、全国の青年たちと親しむようになったのも、そしてさらに、悲しみと憤《いきどお》りをもって友愛塾にわかれを告げ、自信のない新しい生活をはじめなければならなくなったのも、すべては朝倉先生とのつながりにその原因があり、もとをただせば、やはり里子ということにその遠因があると思うからである。
道江の問題を考えて見てもやはり同様である。ぼくが道江を知ったのは、大巻《おおまき》との関係からだが、その大巻との関係は、今の母によって結ばれており、今の母がぼくの家に来るようになったのは、正木の祖父がぼくの将来を気づかって父にそれをすすめたからのことであった。そして、ぼくがその当時将来を気づかわれるような子供であったのは、やはり里子ということにその遠因があったのだ。
里子! 何という大きな力だろう。それは現在のぼくのいっさいを決定しているのだ。ぼくの生活理想も、恋愛《れんあい》も。……そしておそらくそれは将来にもながく尾《お》を引くことであろう。いや、あるいはぼくの一生がすでにそれによって決定されてしまっているのかもしれないのだ。
こう考えて来ると、人間の自由というものは一たい何だろう、とぼくは疑わずにはいられない。それは、円の中心から、自分の欲するままに、円周のどこへでも進んでいけるというようなことでは、絶対にない。おそらく、円の中心から円周に向かって、ほとんど重なりあうように接近して引かれた二つの線の間のスペースを、わずかな末広がりを楽しみに進んでいけるというにすぎないのではあるまいか。もしそうだとすると、それは自由というよりも、むしろ運命とよんだほうが適当だとさえ、ぼくには思えるのだ。
だが、ぼくはまた考える。もしもぼくが、そうした運命観にとらわれて、正しく生きるための努力を放棄《ほうき》するならば、ぼくは円周のどの一点にも行きつくことができないであろう。ぼくにとって今たいせつなことは、運命によってしめつけられた自由の窮屈《きゅうくつ》さを嘆《なげ》くことではなくて、そのわずかな自由を極度に生かしつつ、一刻も早く円周の一点にたどりつくことでなければならないのだ。ぼくには、このごろ、やっと一つの新しい夢《ゆめ》が生まれかけている。それは、円周の一点にたどりつきさえすれば、そこから円周のどの点にも自由に動いて行けるのではないか、と思えて来たことだ。どんな偉人《いじん》にだって運命はあった。かれらがその運命を克服《こくふく》して自由になり得たのは、運命の中のささやかな自由をたいせつにし、それを生かしつつ、円周の一点にたどりつくことができた時ではなかったろうか。ぼくにはそう思えて来たのである。
ぼくは、ぼくの小学校時代、大巻の徹太郎叔父《てつたろうおじ》につれられて山に登り、岩を真二つに割って根を大地に張っていた松《まつ》の木を見たことを今思い出す。その時、徹太郎叔父に言って聞かされた言葉は、そのままには記憶に残っていないが、たしかに今ぼくが考えているのと同じ意味のことだったのだ。
ところで、運命の中のささやかな自由を生かすためには、いったいどうすればいいのか。その努力の心棒になるのは、いったい何なのだ。この問題の解決こそ、今のぼくにとっては何よりたいせつなことなのだが、ぼくの頭では、まだはっきりとした答が出て来ない。ぼくは中学にはいって間もないころ、生意気にも、「人に愛してもらうことなんかどうでもいい。これからは人を愛する人間になるんだ」というようなことを考えたことがあった。しかし、今から考えてみると、それは、愛にうえている自分のみじめさに腹がたち、子供らしい英雄《えいゆう》心理で自分をごまかしていたにすぎなかったのだ。むろん、ぼくは、「愛されたい願い」から、「愛したい願い」への心の転換《てんかん》を尊く思わないのではない。だが、それはしょせん人生の公式的教訓でしかないのではないか。だれが現実にそれができるというのだ。朝倉先生? 田沼先生? 大河無門? いや、人を疑ってはすまない。世の中にはすぐれた人もいるのだから、自分の心をもって人の心をおしはかるのはよそう。だが、
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