よ。ついこないだ読んだ本の中にあったことだが、レドレーとかいう宣教師が中国の西の果てのある土地にはいりこんで、二十年間宣教をしたが一人の信者も得られなかった。ところが、その翌年になってやっと一人の信者ができると、そのあとは年々加速度的にふえていって、今ではその地方の住民がほとんど全部キリスト教徒になってしまっているということだ。私も及《およ》ばずながら、それに学びたいと思っている。実は、白状すると、私もこの話を知るまでは、なかなか決心がつかなかったがね。」
 廊下《ろうか》が急にさわがしくなった。講義が中休みになったらしい。やがて小川先生がのっそりはいって来て次郎の横に腰《こし》をおろし、その鈍重《どんじゅう》な眼で、じっとかれの顔を見つめた。次郎はあわてたように立ちあがって、茶を入れはじめた。すると朝倉先生が言った。
「本田君がなかなか納得《なっとく》してくれないので、弱っているところです。」
「そうでしょう。私もまだ納得がいきません。」
 小川先生は、ぶすりとこたえて、履歴書のたばを自分のほうにひきよせ、
「ほう、こんなに志願者があったんですか」
 次郎は、入れかけていた茶をそのままにして、いきなり両手で顔をおさえ、逃《に》げるように室を出て行ってしまった。
 その日は、次郎にとって、友愛塾はじまって以来の暗い、うつろな日だった。恋《こい》のみか、生命をかけた仕事までが根こそぎになったという意識が、かれの心から考える力をも感ずる力をも完全に奪《うば》ってしまったかのようであった。かれはもう朝倉夫人に慰《なぐさ》めを求めたいという気持ちさえ失ってしまっていた。そのくせ、一ところにじっとしてはいなかった。つぎからつぎに、こざこざした仕事を求めて塾内をあるきまわった。そして、ながい間の習慣に従って、まちがいなく、それらを果たしていった。ちょうど正確な機械ででもあるかのように。
 夕方、べつにする仕事も見つからなくて、寒い塾庭を一人でぶらついていると、大河無門がうしろからかれの肩《かた》をたたいて言った。
「本田さん、ぼくもききましたよ。」
 次郎が虚脱《きょだつ》した眼でかれの顔を見つめていると、
「塾は今度きりで閉鎖《へいさ》になるんですってね。」
「ええ、どうしてわかったんです。」
「小母《おば》さんにききました。」
 次郎は塾が閉鎖になることは、塾生たちにはまだ秘密にすべきことだと思っていた。それを朝倉夫人がどうして大河にもらしたのだろうと、それが不思議でならなかった。大河は、しかし、平気で、
「先生は、これからは、全国|行脚《あんぎゃ》だそうじゃありませんか。いいですね。ぼく、もしお許しが出たら、ついて行きたいと思ってるんです。」
 次郎は、しびれた頭のどこかに急に電気でもかけられたような刺激《しげき》を覚え、眼を見はった。
「本田さんも、むろん、ついて行くんでしょう。」
「ぼく、まだ、そんなこと何も……」
「二人でついて行きましょう。友愛塾の運動は、こんな建物の中でやるより、そのほうがほんとうですよ。ぼく、今度講習をうけてみて、つくづくそう思いました。むろん、それもはじめからじゃ無理かもしれませんが、修了生が五百も全国に散らばっておれば、やり方|次第《しだい》では相当なことができますよ。一回に五十人やそこいらをここに集めてやってるよりか、運動としては、よっぽどそのほうが効果的だと思いますね。」
 次郎は、朝倉先生と三人で、リュックをかついで全国を行脚してあるく姿を心に描《えが》いて、何か楽しい気がしないでもなかった。しかし、かれの眼は、建ってまだ三年とはたたない本館や、空林庵《くうりんあん》を、無念そうに見まわしていた。かれの胸には、幼いころ、自分の通《かよ》っていた村の小学校が新築され、それがかれと乳母《うば》のお浜《はま》を引きはなす原因になり、お浜と二人で最後に旧校舎の屋根を見あげたときの、あの言いようのない寂《さび》しい気持ちが、しみじみとわいていたのだった。かれは何か言いわけでもするように言った。
「しかし、ぼくらがついて歩けば、それだけ費用もかかりますし、勝手には決められないでしょう。」
「それはだいじょうぶです。小母さんのお話では、その費用なら、田沼先生のお力でいくらでも出るところがあるんだそうです。」
 次郎は、このことについて自分とはまだ何一つ話しあっていない朝倉夫人が、すでにそんなことまで大河に話しているのを知って、おどろいた。そのおどろきにはかすかに暗い影《かげ》がさしていた。塾の建物を見まわして幼いころの寂しかった気持をそそられていたかれは、同時に、そのころ覚えた不快な嫉妬心《しっとしん》をも呼びさまされていたのである。それはかれがとうの昔《むかし》にのりこえていたはずの人間としての弱点であった。かれは、その弱点が今もなお心に巣《す》くっているのに気づいて、ぎくりとした。弱点の反省は不快を二重にする。かれは大河から思わず眼をそらして、返事をしなかった。
 すると大河が言った。
「本田さん、小母さんにあまり気をもませないほうがいいですよ。小母さんは今朝から、あなたのことばかり心配して、しじゅう様子を見ておいでですが、ぼく、気の毒に思うんです。」
 次郎ははっとしてまともに大河の顔を見た。大河はにっと笑って、次郎の両肩《りょうかた》に手をかけ、
「実は、ぼくも、あなたの様子が今朝から変だと思って、小母さんにたずねてみたんです。すると小母さんが、何もかも打ちあけて、ぼくにあなたを慰めてくれ、と言ったんですよ。ははは。」
 大河の笑い声はびっくりするほど高かった。次郎はがくりと首をたれた。大河は、すぐ真顔になり、
「友愛塾は、勝つとか負けるとかいうことを考えるところではないんでしょう。ぼく、それがおもしろいと思うんです。くやしがったりしちゃあ、塾の精神が台なしになるじゃありませんか。やっぱり愉快《ゆかい》に行脚《あんぎゃ》しましょうよ。」
 次郎はいきなり大河に抱《だ》きついた。そしてむせぶように言った。
「ぼく、助かりました。……これから大河さんに、もっといろいろきいてもらいたいことがあるんです。旅行に出たら、すっかり話します。」
 この時、塾長室の窓から、二人の様子をじっと見まもっていた四つの眼があった。それはむろん朝倉先生夫妻の眼だった。次郎も大河も、しかし、それにはまるで気がついていなかった。
 その後、旅行までの二日間は、べつに変わったこともなくすぎた。入塾志願取り消しの電報は、その間にもさらに幾通《いくつう》かとどいたが、次郎はもうそれを大して気にはしなかった。むしろそれよりも、旅行前夜まで取り消しの通知が来なかった幾人かの志願者に対して、こちらから、事情により当分休塾するという意味の、きわめて事務的な通知を発送しなければならなくなったことが、かれの気持ちを割りきれないものにしていたのだった。
 いよいよ旅行の日が来た。全員――といっても朝倉夫人だけはいつも留守番役だった――が門を出たのは、まだ夜が明けはなれないころだった。旅行中のいろんな役割は万遍《まんべん》なく塾生全部にふりわけられていた。出発から帰塾まで、全く役割なしですませる塾生は一人もなかった。きまった役割のないのは、朝倉先生と次郎だけだったが、この二人には、到着《とうちゃく》した先で自然に何かの役割が生じて来るはずだったのである。
 最初の目的地は、静岡県のH村だった。この村にはKという友愛塾の第一回の修了生がいて、村生活に大きな役割を果たしているということが、すでに早くからたしかめられていた。朝倉先生としても、次郎としても、ぜひ一度はたずねてみたい村だったのである。
 みんなは、H村につくと、まず小学校の一室に招《しょう》ぜられた。そこには村の青年たちばかりでなく、村長以下のあらゆる機関団体の首脳者が集まっていて、歓迎《かんげい》してくれた。儀式《ぎしき》ばった歓迎では決してなかったが、顔ぶれがあまり大げさなので、朝倉先生がK青年にそのことをそっとただしてみると、かれはこたえた。
「この村では、一つの機関や団体が何かいい催《もよお》しをやると、他の機関や団体もいっしょになって喜んでくれ、できるだけの応援《おうえん》をしてくれるんです。今日も私のほうからむりにお願いして集まってもらったわけではありません。」
 いちおうあいさつがすみ、お茶のごちそうになると、陽《ひ》のあるうちに村中の諸施設《しょしせつ》を見学した。そのあと、また小学校に集まって、村の青年たちと夕食をともにし、座談会をやったが、ただ場所がちがっているというだけで、気分ははじめから終わりまで友愛塾そっくりだった。この村の青年たちは、すでに友愛塾|音頭《おんど》までを、塾生たちといっしょにじょうずにおどることができたのである。
 ふんだんに用意してあった夜具にくるまって一夜をあかし、翌朝早くこの村をたったが、塾生たちのこの村からうけた印象は、なごやかな空気の中にみなぎっている生き生きした創意工夫と革新の精神であった。なお、わかれぎわに、村長が朝倉先生に私語した言葉は、それをはたできいていた塾生たちに、異常な感銘《かんめい》を与《あた》えたらしかった。村長は言った。
「この村をごらんになって、何かいいことがあったとしますと、その半分以上は、実はK君の力ですよ。K君は、自分ですばらしいことを考えだしておいて、それを実施《じっし》する場合には、だれかほかの人を表面に立てるんです。私が村長としてこれまでやって来たことも、たいていはK君の入れ知恵でしてね。ははは。」
 第二日目は、報徳部落として全国に名のきこえた、同県の杉山《すぎやま》部落の見学だった。杉山部落は、歴史と伝統に深い根をもち、すでに完成の域にまで達しているという点で、新興革新の気がみなぎっているH村とは、まさに対蹠的《たいしょてき》だった。明治|維新《いしん》ごろまでは乞食《こじき》部落とまでいわれた山間の小部落が、今では近代的な組合の組織を完成し、堂々たる事務所や倉庫や産業道路などをもつに至ったその過去は、塾生たちにとって、まさに一つの驚異《きょうい》であった。
 かれらはめいめいに自分たちの村の貧しい光景を心に思いうかべながら、この富裕《ふゆう》な部落をあちらこちらと見てあるいた。ほとんど平地にめぐまれないこの部落の人たちは、過去数十年間の努力を積んで、山の斜面《しゃめん》を残るくまなく、茶畑と蜜柑《みかん》畑と竹林とにかえてしまったのである。その指導の中心となったのは片平一家であるが、すでに七十|歳《さい》をこしていると思われる当主|九郎左衛門翁《くろうざえもんおう》の、賢者《けんじゃ》を思わせるような風格に接し、その口から報徳社の精神と部落の歴史とをきくことができたのも、塾生たちの大きな喜びであった。
 午後、杉山部落を辞し、一路バスで清水《しみず》に行き、三保付近の進んだ農業経営や久能《くのう》付近の苺《いちご》の石垣《いしがき》栽培《さいばい》など見学し、その夜は山岡鉄舟《やんまおかてっしゅう》にゆかりの深い鉄舟寺ですごすことにした。
 鉄舟寺は、朝倉先生と次郎にとっては、もう親類みたようなところであった。それは第一回のときにこの地方に旅行に来て、清水青年団の肝《きも》いりで一泊《いっぱく》して以来、たびたび厄介《やっかい》をかけ、住職の伊藤老師ともすっかり仲よしになっていたからである。
 老師は五尺にも足りない小柄《こがら》な人で、年はもう八十に近かったが、子供のようなあどけない顔をしており、心も童心そのものであった。いつも塾生たちがつくまえから、庫裡《くり》の玄関《げんかん》にちょこなんとすわりこみ、いかにも待ちどおしそうにしていた。そしていよいよ塾生たちの顔が見えると、
「よう来た、よう来た。さあさあ、おあがり。御堂でも庫裡でも遠慮《えんりょ》はいらん。うちのつもりで、すきなところにゆっくりするんじゃ。」
 と、それだけ言うと、すぐ立ちあがって姿を消してしまう。姿を消すのは、塾
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