部養成のための施設《しせつ》の選択《せんたく》には、それとなく強い制限が加えられることになり、その結果、残念ながら、友愛塾の志願者もいちじるしく減少するのではないかと予想されます。このことについては、省内にも内々反対の意見を持つものがないではありませんが、それを口に出すことさえできないのが現在の実状です。……」
 内容はそれだけでほとんどつきており、あとはいろいろの感情を盛《も》った言葉の羅列《られつ》にすぎなかった。
 次郎は読みおわると、がくりと首をたれた。かれの膝の上には、もう涙《なみだ》がぼろぼろとこぼれていた。
 朝倉先生は眼《め》をそらして窓のそとを眺《なが》めていたが、
「時勢だよ。」
 と、ぽつりと言って、眼をとじた。
 しばらくして、次郎が声をふるわせながら、
「先生は、もうあきらめていらっしゃるんですか。」
「あきらめるよりしかたがないだろう。じたばたしても、どうにもならない。」
「田沼先生も、もうご存じなんでしょうか。」
「むろんご存じだ。取り消しの電報のことも電話で申しあげてある。」
「それで何ともおっしゃらないんですか。」
「やはりしかたがないだろうとおっしゃる。」
 次郎は、きっと口をむすび、涙のたまった眼で、にらむようにしばらく朝倉先生の顔を見つめていたが、
「ぼく、しかたがあると思うんです。」
「どうするんだね。」
「この中には――」
 と、次郎は履歴書の束をひきよせて、
「これまでの修了生や現在の塾生たちにすすめられて志願したものがすいぶんあるんです。そういう志願者たちは、今から手をうてば、どうにかなると思うんです。」
「手をうつというと?」
「勧誘《かんゆう》の手紙を出すんです。先生からも、塾生みんなからも。」
「どんな手紙を出すんだい。」
「真相をぶちまけて正義感に訴え、同志的な呼びかけをやるんです。」
「それで動くと思うかね。」
「動くように書くんです。旅行までには、まだあと二日あるんですから、みんなで文案をねるんです。」
 朝倉先生はさびしく笑った。が、すぐ深刻な眼をして、
「かりに名文ができて、それに青年たちが動かされたとしたら、あとはどうなるんだい。」
「それで問題はないじゃありませんか。塾生が集まって来さえすれば、あとはどんな圧迫《あっぱく》があっても、これまでどおりにやっていけばいいんです。」
「それで友愛塾はつぶれないと言うんだね。」
「そうです。」
「なるほど。君の言うことはよくわかる。友愛塾をつぶさないためには、成功するかしないかは別として、いちおう手紙を出して見るのも一策《いっさく》だろう。しかし、そうして集まって来た青年たちは、気の毒なことになるね。」
「どうしてです。」
「おそらく村や町の生活から孤立《こりつ》することになるだろう。どうかすると、非国民のレッテルをはられることになるかもしれない。少なくとも公然と何かの役割を果たすことができなくなるのはたしかだよ。」
 次郎は、机の一点を見つめて、ちょっと考えたあと、
「しかし、そうなればそれでもいいんじゃありませんか。どうせ友愛塾の運動は時代への反抗《はんこう》でしょう。今の時勢では、正しいものが孤立するのはむしろ当然ですし、それでこそかえって大きな役割が果たせるとも言えると思うんです。」
「時代への反抗、なるほどね。――」
 と朝倉先生は眼をつぶった。そしてしばらく額をなでていたが、
「なるほど友愛塾の精神は、今の時代では一種の反抗精神だと言えるね。しかし、田沼先生も私も、大衆青年を反抗の精神にかりたてるつもりは毛頭《もうとう》ない。私たちが大衆青年に求めているのは、まず何よりも愛情だよ。愛情に出発した創造と調和の精神だよ。」
「それはわかっています。しかし、今のような時代では、その愛情はまず反抗の精神となってあらわれるのが当然でしょう。それでこそ、ほんとうの意味での創造と調和とが期待されるんじゃありますまいか。」
「それはその通りだ。だからこそ軍部ににらまれるような友愛塾も生まれたんだ。しかし、そういうことをただちに個々の大衆青年に求めるのは大きな冒険《ぼうけん》だよ。大衆青年というものは、どんなに思慮《しりょ》があるように思えても、いったん反抗の精神にかりたてられると、どこにいくかわからないし、たいていの場合、破壊《はかい》に終わるものだからね。それでは世の中はちっともよくならない。青年自身としても不幸になるだけだ。」
「すると、流されるままに放っとくほうがいいとおっしゃるんですか。」
「そう言われるとつらいが、それもしかたがない。やはり時勢には勝てないよ。今は無益な摩擦《まさつ》の原因を作るより、なごやかな愛情を育てるために、できるだけの手段を講ずべきだね。」
「その手段も、友愛塾をつぶしてしまっては、おしまいじゃありませんか。」
「むろん、友愛塾があるにこしたことはない。しかし、それがつぶれたからといって、何もかもおしまいになるというわけのものでもあるまい。全国には塾の修了生がもう五百名近くも散らばっているし、私は、これからは、むしろわれわれの精神をよく理解した修了生たちに事情を訴《うった》えて、各地でこれまで以上に友愛運動を展開してもらいたいと思っているんだ。」
「しかし、そういう人たちも、これからは孤立するんじゃありますまいか。」
「友愛塾の修了者だという理由で?」
「ええ。」
「まさか。……もっとも、その人たちが友愛塾の旗をふりまわすといったふうであれば、その心配もあるだろう。しかしほんとうに塾の精神がわかっているかぎり、そんなばかなまねはしないよ。結局は周囲にとけこんでいく実際の生活がものを言うさ。」
 次郎は考えこんだ。考えれば考えるほど、朝倉先生が敗北主義者になったような気がして腹がたって来た。かれは、もう何もいわないで塾長室を出ようかと思った。しかし、ながい間の先生に対する信頼感《しんらいかん》がかれにそれをためらわせた。
 かなりたって、かれはいくぶん皮肉な調子で言った。
「ぼくにも、先生が愛情をたいせつたいせつにされるお気持ちはよくわかります。しかし愛情の表現をどうするかということについては、問題があると思うんです。先生のように、周囲にとけこんで摩擦を起こさないようにすることに、あまり重きをおきすぎると、修了生たちだって、結局は時代に流されるよりほかないじゃありませんか。」
「ある点では、――いや形の上ではすべての点で、そうなっていくかもしれないね。しかし、時代に流されながらも愛情だけはたいせつに育てていくということを忘れない点で、ただやたらに叱咤《しった》激励《げきれい》する連中とは根本的にちがっているよ。」
「しかし、そんなことが日本の破滅《はめつ》を救うのに何の役に立ちますか。」
「少しは役にたつかもしれないし、あるいは全く役にたたないかもしれない。今の形勢では役にたたないといったほうが本当だろうね。」
「先生!」
 次郎は激昂《げきこう》して、
「ぼくたちは、これまで、日本の破滅をくいとめるために戦って来たんじゃありませんか。」
「むろんそうだ。」
「そんなら、それに役だつ方何に少しでも努力したらどうです。」
「今は愛情を育てることだけが、ただ一つの道だ。愛情を失っては、そのほかのどんなことに成功しても何の役にも立たない。」
「愛情だって、日本が破滅したら、何の役にも立たないでしょう。」
「愛情はあらゆる運命をこえて生きる。それは破滅の悲劇にたえて行く力でもあり、破滅の後の再建を可能にする力でもあるんだ。人間の社会では、愛情だけがほんとうの力なんだよ。それさえあれば無からでも出発ができるし、反対に、それがなくては、あらゆる好条件がかえって破滅の原因にさえなるんだ。」
 次郎はまた考えこんだ。首をたれ、顔色が青ざめ、眼が凍《こお》ったように光っていた。かれはその眼をそろそろとあげ、じっと朝倉先生を見つめながら、
「先生は、すると、日本の破滅はもう必至だとお考えですか。」
「必至? それはわからない。悪の勝利ということもあるのだからね。しかし、かりにそれで一時的に破滅をまぬがれても、むろん安心はできないだろう。悪の勝利は決して、永遠ではないんだ。」
「そういう意味では、やはり必至だとお考えですね。」
 朝倉先生は沈痛《ちんつう》な眼をして、
「実は、これは田沼先生にうかがったことだが、現在の上層部の人たちで、世界の事情に少しでも明るい人なら、さっきいった悪の勝利でさえ信じているものは一人もないらしい。それにもかかわらず、現在の勢いを阻止《そし》できないというのは、いかにも残念だ。田沼先生もそれで非常に苦しんでいられる。むろんああいう方だから、最後まで努力はつづけられるだろう。しかし、青年指導について、せんだって私にもらされたご意見から察すると、やはり大勢《たいせい》はどうにもならないらしいね。」
「青年指導についての田沼先生のご意見といいますと?」
「勢いを阻止するための指導よりは、最悪の事態を迎《むか》えるための指導が今ではたいせつだ、とおっしゃるんだ。」
「つまり、先生がさっきおっしゃったように、愛情を育てるということなんですね。」
「そうだ。目あきもめくらもいっしょになって地獄《じごく》に飛びこむのが運命だとすれば、その運命をおそれてじたばたするより、その運命の中で生きて行けるたしかな道を求めるほうが賢明《けんめい》だというお考えなんだ。むろんこれは一般《いっぱん》の国民についてのお考えで、先生ご自身としては、まだ決してあきらめてはいられない。おそらく今もどこかで血の出るような努力をつづけていられることだろう。田沼先生という方はそういう方なんだ。蓆旗《むしろばた》を押したてて青年をけしかけるような運動は、血をもって血を洗うにすぎない、というのが先生の信念でね。」
 次郎は、田沼先生が、二月二十六日の事変後に組織された内閣《ないかく》に入閣の交渉《こうしょう》をうけたのを、即座《そくざ》に拒絶《きょぜつ》した、という新聞記事を見たのをふと思いおこした。それと今の話との間には、直接には何の結びつきもなかったが、信念の人としての田沼先生の人柄《ひとがら》が、それでいよいよはっきりするように思えたのである。
「とにかく、田沼先生も、友愛塾をつづけて行くことはもう断念しておいでだ。君としては、一生をかけた仕事が、わすか十回でおしまいになるのは残念だろうが、考えようでは、仕事がいっそう地についた、大きいものになったともいえる。気をおとさないようにしてくれたまえ。」
 朝倉先生がしんみりとなって言った。次郎はもう何も言うことができなかった。かれは泣きたい気持ちだったが、やっと気をとりなおして、
「すると、先生はこれからどうなさるんです。」
「全国|行脚《あんぎゃ》だね。」
「講演をしておまわりですか。」
「講演はしない。したいと思っても、おそらくどこでもさせてはくれないだろう。まあ、せいぜい、ここの修了生を中心に、同志の座談会をひらくぐらいなものだね。それも、できるだけ目だたない方法でやらなくてはなるまい。何だか一種の秘密結社みたようになるかもしれないが、しかたがない。しかし、辛抱《しんぼう》づよくつづけていけば、将来の国民生活の底力《そこぢから》にはなるよ。目だたない底力にね。」
 次郎は雲をつかむようで心ぼそい気がした。五百名の修了生があると言っても、それは全国に散らばれば無にひとしい勢力である。それに、そのなかの何人が、そうした運動に真剣《しんけん》に協力してくれるか、それも心もとない。これは朝倉先生の自己|慰安《いあん》にすぎないのではないか、とも思った。
「不賛成かね。」
 朝倉先生は、次郎の気持ちを見透《みすか》すように、微笑《びしょう》しながら言った。
「ええ――」
 と、次郎がなま返事をすると、朝倉先生はその澄《す》んだ眼を射るように光らせながら、
「君は、一粒《ひとつぶ》の種をまく、という言葉を知っているだろう。ほんとうの仕事はその一粒からはじまるものなんだ
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