少なくとも今のぼくにはできない。今のぼくは、正直に言って、やはり道江に愛されたいのだ。また、友愛塾をつぶした権力者や、それをとりまく人たちを心から憎《にく》んでいるのだ。ぼくの心に、そうした気持ちがうずをまいている限り、ぼくは、親鸞《しんらん》のあとに従って、自分を煩悩熾盛《ぼんのうしじょう》、罪悪深重《ざいあくしんちょう》の人間だと観念するよりしかたがないのではないか。
ぼくは、しかし、だからといって、決してやけ[#「やけ」に傍点]にはなりたくない。またなってもいないつもりだ。ぼくの今の気持ちは、迷うだけ迷ってみたいという気持ちだ。円周にたどりついたあとのほのかな夢だけを抱いて、もがきにもがいているうちには、きっとどこかに道が見つかるだろう。その道は、煩悩熾盛、罪悪深重のままで歩ける道であるのかもしれない。あるいは、公式的教訓にすぎないと思われたことが、次第《しだい》に現実性をおびて来るという形で現われて来るのかもしれない。そう思うと、迷いに迷うことがすでに一つの道である、という気もするのだ。これは自分の自慰《じい》にすぎないだろうか。
何だか、書くことが矛盾《むじゅん》だらけで、どこに自分の本心があるのか、わけがわからなくなってしまったが、わけがわからないのが現在の自分の姿であるとすれば、それもしかたのないことだ。ぼくは、あるいは疲《つか》れすぎているのかもしれない。今日は、日記を書くのはもうやめよう。」
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](第五部おわり)
[#改ページ]
「次郎物語 第五部」あとがき
この物語の第四部を書き終えたのは、昭和二十四年の三月十八日であった。それからもうやがてまる五年になろうとしている。月日のたつのは早いものである。それにしても、第五部を書くために五年の歳月《さいげつ》はあまりに永過ぎるのではないかと怪《あや》しむ人も多いだろう。事実、多数の読者からは、ずいぶん怠慢《たいまん》だというお叱《しか》りもうけた。第四部の「あとがき」の手前、著者としては、ただ頭を下げるより仕方がない。しかし、言いわけをしようと思えば、その種がまるでないわけでもないのである。
実をいうと、第五部に筆をとりはじめたのは、第四部を書き終って間もない五月半ばであった。そして七月からは、その当時の私の個人雑誌「新風士」にそれを発表しはじめたものである。ところが翌年の三月、その九回目を書きあげたころになって、私のからだの調子がわるくなり、ついに病床《びょうしょう》に横たわる身となってしまった。病気はさほど重いというほどではなく、二カ月ほどで起きあがるには起きあがったが、主治医からは執筆《しっぴつ》を厳禁され、自分でも、それを押しきってまで書きたいという程の意欲はどうしても湧《わ》いて来なかった。一方、個人雑誌「新風土」も、そのために自然|廃刊《はいかん》の余儀《よぎ》なきにいたり、何もかもが当分休止という状態になってしまったのである。
その後、幸いにして健康が徐々《じょじょ》に恢復《かいふく》し、一冬をこして春になったころには、完全に医者の手をはなれ、執筆の自信も十分に出来、ちょいちょい雑文などを書くようになったが、それでも第五部の続稿《ぞくこう》にはなかなか手がつかなかった。というのは、それに手をつけようとして、すでに書き終った分を読みかえしてみた結果、意に満たない箇所《かしょ》が非常に多く、そのままで稿をつづけることに全く厭気《いやけ》がさして来たからであった。
こうして毎日重たい気分におそわれながらも、ひと月ふた月と続稿をのばしているうちに、いつの間にやら一年が経過してしまった。知人のたれかれは、はじめのうち、「もう次郎は育てないつもりか」と、詰問《きつもん》するように言って私をはげましてくれたが、あとでは、そういう声もめったに聞かれなくなり、私としては、気重な気分と共に淋《さび》しい気分まで味わいはじめることになったのであった。
いっそはじめから書き直すつもりで筆をとろう。そう決心して、あらためて構想をねりはじめたのは、一昨年の暮《くれ》ごろであったが、その新たな構想がまだまとまらないうちに、たまたま、宗教雑誌「大法輪」の編集者がたずねて来て、同誌上に第五部を連載《れんさい》したいという希望をのべた。すでに「新風土」に発表した部分があるが、と答えると、それでも差支《さしつか》えない。新春早々にその第一回をもらうことが出来れば幸いだという。そこで私は、構想に多少の修正を加えると共に、毎回新たに筆をとるような気持で書き出す決心をして、話をまとめることにした。
いよいよ「大法輪」に連載され出したのは、昨年の三月号からで、終回は今年の三月号だから、その完成に、あらためて一年以上を費やしたわけである。
以上が、第五部出版|遅延《ちえん》の言訳である。
なお、第六部はどうするか、ときかれても、それは第五部の場合のこともあり、確約は差控《さしひか》えたい。ことに、私ももう七十歳をこしてしまったことだし、生命に別条がないとしても、脳味噌《のうみそ》の硬化《こうか》はさすがに争えないものがあるのだから、めったな約束《やくそく》はしない方がいいだろうと思うのである。ただ私の希望だけをいうならば、戦争末期の次郎を第六部、終戦後数年たってからの次郎を第七部として描《えが》いてみたいと思っている。むろんすべては運命が決定することであり、私自身の意志は、次郎がかれの日記に書いているように、運命にしめつけられた、せまい自由の範囲《はんい》においてのみ動くことを許されるであろう。
[#天から3字下げ]一九五四年三月四日
底本:「次郎物語(下)」新潮文庫、新潮社
1987(昭和62)年5月30日発行
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2006年3月4日作成
2007年11月7日修正
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