たりして、心ある塾生たちの反感を買った。大河無門は、二十六日の読書会と研究会で発言したきり、事変中も事変後も沈黙《ちんもく》を守りつづけたが、それは田川の場合とはちがって、むしろ本来のかれの面目《めんぼく》にかえった姿だった。塾生たちは、しかし、研究会でのかれの雄弁《ゆうべん》に圧倒《あっとう》されて以来、議論がめんどうになって来ると、とかくかれの意見を求めたがった。かれも求められると何か言うには言ったが、いつも結論だけをぼそっと言って、あとはとぼけているといった風であった。青山敬太郎も本来あまり口をきかないほうだったが、事変以来は、大河とは反対に、進んで発言する場合がかえって多くなっていた。もっとも、その発言は、友愛塾生活の根本の精神にふれるような論議の場合にかぎられているようだった。また、かれは、しばしば朝倉先生や次郎に対して、こんな感想をもらした。
「事変が起こってみて、ここの生活の意味が、いっそうはっきりわかりました。しかし、一方では、いよいよむずかしくなったという気もします。」
 事変後、塾生たちに何か目だつようなことがあったとすれば、まずそんなようなことで一般《いっぱん》の塾生たちは、たよりないほど自然に、もとの気分に立ち直りつつあったのである。
 そうした中で、だれの目にもついたのは次郎の変わり方であった。かれが無口になったことは、田川や大河などの比ではなかった。二十六日の研究会以来、よんどころない用件以外は絶対に沈黙を守っているといったほうが適当なぐらいであった。しかもそれは集会の場合にかぎられたことではなかった。廊下《ろうか》で塾生たちにあっても。目を伏《ふ》せて通りすぎることが多かったし、塾長室や空林庵《くうりんあん》にも自分から顔を出すことはほとんどなく、行事がない時には、たいてい自分の室にとじこもっているといったふうであった。
 このことが、朝倉先生夫妻の話題に上《のぼ》らないわけは、むろんなかった。二人は、しかし、いつもそれを塾の不安な将来と結びつけて考えていた。
「そりゃあ、むりもありませんわ。次郎さんにとっては、今ではこの塾だけが、ただ一つの世界ですものね。いつでしたか、ここを自分の死に場所にしたいなんて、本気でそう言っていらしったこともありますわ。」
「そんなことを言っていたのか、わかいくせに。元来それほど単純な男でもないが、打ちこむと馬車|馬《うま》のようになるんで困る。」
「でも、あんなに純な気持ちになれるのは尊いと思いますわ。」
「尊いかもしれんが、そのために、あんなにふさぐようでは、感心ばかりもしておれんね。」
「何とか慰《なぐさ》めてあげたほうがいいじゃありません?」
「うむ。そうも考えるが、ほっておくのもわるくはないだろう。いざとなったら、ふさいでばかりもおれないだろうし、自分で何とか始末するよ。」
「あたし、それじゃあ何だか残酷《ざんこく》なような気がしますけれど。」
「そうかね。しかし、そんな残酷さは、友愛塾では毎日のことじゃないかね。」
「そうおっしゃられると、そうですけれど。」
 二人の話は、いつもそんなふうで終わりになるのだった。二人とも、次郎のふさぎの虫の原因の大半が道江《みちえ》の問題にあるということには、まるで気がついていなかったし、まして、それが塾の運命にづいての不安感とからみあって、かれの人間としての自信をゆすぶり、さらにそれが大河無門という人物の存在によって拍車《はくしゃ》をかけられているという複雑な事情など、とうてい思いも及《およ》ばなかったことなのである。
 道江の問題といえば、次郎は、その後、そのことについていっそうきびしい試練にあわなければならなかった。しかも、その試練は東京の事変が塾内の空気を不安の絶頂にかりたてていた二月二十八日の夕方にはじまったのである。かれは、その日、夕食をすまして自室にかえると、机の上に一通の分厚な封書《ふうしょ》を発見した。かれは、その発信人が道江であることを知った瞬間《しゅんかん》、おどろくというよりは、むしろ恐怖《きょうふ》に似た感じで胸をふるわした。かれには、すぐには封を切る勇気が出なかった。もしもそれが一枚のはがきに帰郷を報じて来たものにすぎなかったとしたら、かれはただ寂《さび》しい気持ちでそれを読みすてたかもしれなかった。また封書ではあっても、それがわずか二三枚の便箋《びんせん》に書かれたものであったとしたら、かれはその中から何か言外の意味を探ろうとして、くりかえし読んでみたかもしれなかった。だが、それはあまりにも分厚であり、分厚であるというそのことが、内容を想像してみるまえに、ただわけもなくかれを不安にしたのである。
 かれは封を切らないままで焼きすてようかと、何度か思ってみた。しかし、それははかない努力であった。焼きすてようと思ってみただけで、焼きすてたあとに感ずるであろう不安が、現在の不安以上の力をもってかれにせまって来るのだった。かれは封書を前にしたままながいこと迷った。迷えば迷うほど、一方では自分のふがいなさが感じられて、腹だたしくも悲しくもなった。かれは何かにしがみつきたい気持ちだった、そして、いつの間にか、「歎異抄《たんにしょう》」の中のいろいろの言葉を心の中でくりかえしていた。くりかえしているうちに、
(そうだ、自分の「はからひ」なんか、なんの力にもなるものではない。)
 と、そんな考えが自然にかれの頭をかすめた。この場合、それは実は、かれ自身に対する言いわけ以上のものではなかったのかもしれない。しかし、それでも一つの救いであったにはちがいなかった。かれはとうとう思いきって封を切った。
 手紙には、帰郷のあいさつらしい文句はどこにもなく、最初から次郎を息づまらせるような言葉ではじまっていた。
「こんなお手紙を差しあげては、次郎さんはきっと私を軽蔑《けいべつ》なさるだろうと思いますけれど、次郎さんよりほかに、今の私の気持ちを訴えるところがありませんから、軽蔑されるのを覚悟《かくご》の上で、思いきって書くことにいたしました。どうか私のこの気持ちをお察しくだすって、おいやでも、読むだけは、最後までお読みくださるよう、切に切にお願い申します。」
 この書き出しを見ただけで、次郎はもう、道江がこれから自分に訴えようとする問題の中心が何であるかを想像し、自分がその問題について第三者的立場に立たされていることを、はっきり意識した。それはにがい、そして冷たい味のする意識だった。封を切る時に、かすかながらもある期待をかけていた自分の甘《あま》さに対する自嘲《じちょう》が、そのにがさと冷たさとを倍加した。かれの眼は、しかし、そうであればあるほど鋭《するど》く手紙の上に光っていた。
 手紙の文句はふしぎなほどの冷静さをもってつづられていた。次郎はかつて道江を平凡《へいぼん》な女だと思ったことがあったが、読んで行くうちに、その平凡さのおどろくべき成長を見せつけられ、それに一種の威圧《いあつ》をさえ感ずるのだった。
「……実は私は、女学校を卒業前後から、いつとはなしに、恭一《きょういち》さんと私とは許婚《いいなずけ》の間柄《あいだがら》だとばかり信じて来ました。今になって考えて見ますと、あらたまってそれを私に言って聞かしてくれた人はだれもありませんので、全く私の思いちがいだったのかもしれません。もしそうだとすると、私の軽はずみを恥《は》じるほかないような気がいたします。しかし、これは次郎さんもたぶんおわかりくださることだろうと思いますが、親類中が、私にそう信じこませるような空気を作っていたことも事実だと思います。私は、自分の家にいても、大巻《おおまき》の姉の家や次郎さんのお家をおたずねしても、何かにつけ、そうとしか思えないようなことを耳にして、よく顔をあからめたものでした。その中には、だれがどんな場合にどういうことを言ったのかさえ、今でもはっきり思い出せるものも少なくはないのです。女というものは、そういうことについては男よりずっと敏感《びんかん》だということを次郎さんがお認めくださるなら、私が恭一さんと許婚の間柄だと信じこんでいたのも無理はない、とお許しいただけるのではありますまいか。そしてそれをお許しいただけますなら、私が恭一さんをお慕《した》い申しあげる気持ちがそのために日に日に深まっていって、今ではそれだけが私の生きる力になっている、と申しあげても、きっとおさげすみにはならないだろうと信じます。」
 次郎は、こうした理詰《りづ》めの言葉がつづけばつづくほど、かえって道江の苦悩《くのう》の深さを感じた。一心不乱になって色青ざめている額の下から、二つの眼がじっと自分のほうを見つめているような気さえするのだった。
「しかし、何という愚《おろ》かな私だったことでしょう。私はこれまで、私の希望をつなぐために何よりもかんじんな、というよりは、それを忘れては何もかもが空になるような、ただ一つのよりどころを、私自身ではっきりたしかめることを忘れていたのです。私はながい間、いわば根のない希望の花を胸にさして、水だけを周囲の人たちに注いでもらっていたようなものでした。そのことをはっきり知らされたのは、ついこないだ上京して帰りの汽車の中だったのです。」
 そのあと、道江の手紙は、上京から退京までのことをかなりこまかに記していたが、それを要約すると、――
 道江は幸福に胸をふくらまして上京した。そして滞在中《たいざいちゅう》は、父が用事で忙《いそが》しかったために、たいていは恭一の案内で見物や買い物に出かけ、その間に、二人きりで食事をすることもまれではなかった。恭一はいつも親切で、二人の将来の家庭生活の夢《ゆめ》を語るというようなことこそなかったが、思想・文芸などの話から、かなり突《つ》っこんだ人生問題などにふれたこともあり、道江は最後まで何か新鮮《しんせん》な明るい光につつまれたような気持ちで日を過ごした。ただ、退京の前夜、恭一が宿にたずねて来て、荷造りをしている道江をあとに残し、父だけを誘《さそ》って外に出たが、二時間あまりもたって帰って来た父が、いやに考えぶかそうな顔をしており、口もあまりきかなかったので、それが道江にはちょっと気になった。しかし、翌日、東京駅に見おくってくれた恭一は、道江に対しては、これまでと全く変わりはなかった。ただ、父とのあいだは何かしら気まずそうで、気のせいか、あいさつもぎごちなく思われた――。
「私はそれでいよいよ気がかりになりましたが、それでも、それが私自身の問題に関係のあることだとは夢にも思っていませんでした。ところが、列車が静岡をすぎたころになって、それまで眼をつぶってばかりいて、ほとんど口をきかなかった父が、だしぬけに、お前はこれまで恭一君といっしょになるつもりでいたんだろうね、とたずねるのです。それがあんまりだしぬけであり、また、事がらが事がらだけに、私はもちろん返事ができませんでした。私がその時どんな顔をしたか、今から自分で想像してみましても、まるで見当がつきません。ただ、覚えていることは、父がそれっきり、また眼をつぶってしまい、おおかた十分近くもおたがいに口をききあわなかったことです。それほど私はその一言をきいただけで自分を取り失っていたのでした。沈黙のあとで、父は、今度はしいて笑いを浮《う》かべながら話しだしました。私は今、父がどんな言葉をつかい、どんな順序で話したのか、とても思い出せませんが、私の頭にはっきり残りましたことは、恭一さんは私と結婚《けっこん》することなど夢にも思っていらっしゃらない、それどころか、ご自分と非常にお親しいお友だちで、死ぬほど私のことを思っていてくださる方があるから、私にぜひその方との結婚のことを考えてみるように熱心におすすめくだすった、ということでした。そのお友だちがだれだかは私にはわかりません。父は私にそれを申しませんでしたし、私もたずねて見る気にもならなかったのです。」
 次郎は、それ以上読み進む勇気がしばらくは出なかった。
 かれの気持ちは、非
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