のために、感情的興奮に駆《か》られてはげしい言葉づかいをするようなことは決してなかった。真剣であり熱心であるということと、冷静であり理性的であるということを一致《いっち》させることの困難さを、両先生は、その教育的信念と年齢《ねんれい》とによって、すでに十分|克服《こくふく》していたのである。
だが、両先生のそうした真剣さと聡明《そうめい》さとにもかかわらず、塾生たちの興奮は、なかなか治まらなかった。どうなり治まりかけたかと思うと、だれかのちょっとした刺激的な発言によって、またすぐ火がつくといったぐあいであった。青年の集団では、一般《いっぱん》に理知よりも激情《げきじょう》が勝利をしめがちなものだが、とりわけ説得者が大人であり、青年自身の中からその強力な支持者が一人もあらわれない場合、理知の勝利はほとんど絶望的だとさえ言えるのである。だから、もし塾生の中に大河無門や青山敬太郎のような青年たちがいなかったとしたら、両先生も、わずか二時間ぐらいの研究会では、政治に対する青年団のあり方について正しい結論を引き出しうるまでに、かれらの気分を落ちつけることができなかったかもしれないのである。
この研究会における大河無門のはたらきは、実際すばらしかった。かれは、ひる間の読書会のおりに読みあげた「夜話」の一節をもう一度くりかえし、政治革新のために暴力を用いることの罪悪を痛論するとともに、いっさいの建設は個々人が脚下《きゃっか》を照顧《しょうこ》しつつ、一隅《いちぐう》を照らす努力を払《はら》うことによってのみ可能であることを力説し、最後にそれを青年団と政治の問題に結びつけた。
「青年団の政治革新への協力の第一歩は、青年団自体の、共同生活をみごとに組織だてることであり、つぎは郷土社会の実体を研究して、その将来の理想化を準備することである。もしこの二つのことに十分の成功を収めるならば、府県政や国政の腐敗《ふはい》堕落《だらく》はおのずからにして救われるであろう。」
要するに、これがかれの結論であった。かれはこの結論を引き出すために、巧《たく》みに「夜話」の中の言葉を利用した。そして、その間にかれが示した気魄《きはく》と機知と、明徹《めいてつ》な論理と、そして自然のユーモアとは、異変に眩惑《げんわく》されていた塾生たちを常態に引きもどすのに大きな役割を果たしたのである。
青山敬太郎は大河ほど雄弁《ゆうべん》な口はきかなかった。かれはむしろ沈黙《ちんもく》がちであり、ごくまれに断片的《だんぺんてき》な意見を発表するにすぎなかった。しかし、かれの明敏《めいびん》さと誠実さから出る言葉は、田川大作のような激情家や、飯島好造のような機会主義者の言葉とはいい対照をなしており、それが他の塾生たちの心の動きに及ぼした効果は、決して小さいものではなかった。
こうして、この晩の研究会は、いつもにない波瀾《はらん》を見せたとはいえ、一二のすぐれた塾生の協力によって、ともかくも友愛塾らしい結論を生み出すことに成功して、最後の幕をとじた。さすがの田川大作も、大河無門の気魄がぐいぐいと全体の空気を支配して行く力には勝てず、とうとう「そうかなあ」という嘆息《たんそく》に似た言葉を最後にもらして、旗をまいたのである。
ただふしぎだったのは、次郎の態度だった。かれは、はじめから終わりまで一言も口をきかなかったが、そうしたことは、これまでに全く例のないことだった。研究会の場合、とりわけその研究題目が青年団に関したものである場合、かれはもう朝倉先生とともに指導的立場に立ってものをいう資格があったし、また、これまでは、自分でも十分な自信をもって、論議を戦わして来ていたのである。そのかれが今度のような大事な場合にかぎって沈黙を守ったということには、何か大きな理由がなければならなかった。
いったい人間というものは、自分とあまり年齢《ねんれい》の差のない人たちの間に、自分の及びもつかないほどすぐれた人物を発見すると、とかく自信を失いがちなものであり、そして、その危険は、これまで自分の持っていた自信の大きさに比例して大きくなるものだが、万一にも、その自信が何か他の事情によって多少でも傷つけられている場合であると、それはほとんど絶対的だとさえ言えるのである。次郎は、少年時代からの苦闘《くとう》によって、自分の人間としての価値にすでにかなりの自信をもっていた。ことに郷里の中学を退き、道江《みちえ》への愛情を断《た》ちきって、友愛塾の生活に専念するようになってからは、心ひそかに自分を朝倉先生の後継者《こうけいしゃ》にさえなぞらえていたのである。だが、かれのそうした自信も、一方では荒田老という怪奇《かいき》な人物の出現によって、他の一方では道江の上京の通知によって、ゆずぶられはじめていた。そしてそこに現われたのが、大河無門という、すばらしい人物だったのである。
かれは大河との初対面から、すでにある程度のひけ目を感じていたが、それは塾生活の進展とともに、いよいよ深まるばかりであった。それに拍車《はくしゃ》をかけたのが、道江の来訪と、それにつづく恭一との手紙のやりとりの間に感じた心の動揺《どうよう》であった。そして最後に、東京の異変がおとずれたが、この異変をめぐっての、かれ自身の態度と大河の態度との、あまりにも大きなちがいに気がついたとき、かれはこれまでの自信をほとんど完全に打ちくだかれてしまったのである。
これが、おそらく、その晩の研究会で、かれが沈黙に終始した大きな理由であったにちがいないのである。
一一 混迷《こんめい》
翌日から塾生《じゅくせい》たちは、毎朝、ラジオと新聞の大きな活字によって、あらためて大きな興奮にまきこまれた。ラジオは事務室に備えつけてあり、ふだんはゆっくり聞く時間がないので、めったにスウィッチを入れたこともなかったが、事変以来は、きまった行事の時間でないかぎり、ほとんどかけっぱなしの有様だった。
何といっても、最も刺激的《しげきてき》だったのは、重臣暗殺の報道だった。とりわけ斎藤実《さいとうまこと》、高橋是清《たかはしこれきよ》といったような、ながく国民に敬愛されていた人たちの遭難《そうなん》の詳報《しょうほう》は、田川大作のような右翼的《うよくてき》傾向《けいこう》の強い塾生たちにも、さすがに悲痛な気持ちをもって迎《むか》えられたらしかった。ほとんど確実に死んだと見られていた岡田首相の生存の報が、この塾堂につたわったのは、もういくぶん刺激に慣れて来た三十日の朝だったが、それがあまりにも意想外であったために、一種のユーモアをまじえた好奇心《こうきしん》をもって迎えられた。
新聞にせよ、ラジオにせよ、その報道の中に、たえす塾生たちを困惑《こんわく》させた一事があった、それは「蹶起《けっき》部隊」とか、「行動部隊」とか、あるいは「占拠《せんきょ》部隊」とかいう言葉が使用され、三日目になって、やっと「騒擾《そうじょう》」という言葉が使用されたが、それもはっきり「叛乱《はんらん》」を意味するものとは思えないことであった。このことは、塾生たちの間に、しばしば先夜の研究会の論議をむしかえさせる種になり、また朝倉先生に対する正面切っての質問ともなった。そうした場合の朝倉先生の答えは簡単だったが、内容はいつも複雑だった。たとえば、
「何も知らない兵隊たちには、汚名《おめい》を負わせないですめばそれにこしたことはないだろう。」とか、
「報道者の苦心はなみたいていではないだろう。ちょっとした文章や声の調子にもそれがあらわれているのがわかるね。」
とかいうのであった。
報道は一報ごとに不安と疑惑《ぎわく》を増大せしめるようなものばかりであった。戦時警備令が下り、香椎《かしい》中将の下に第一師団と近衛《このえ》師団とがその任に当たることになったのは当然だとしても、叛乱軍の諸部隊が、そのまま警備部隊に編入され、それぞれの占拠地において警備に任ずることになり、戒厳令《かいげんれい》が布《し》かれてもやはり同様であった。しかも叛軍の一将校はその占拠地において民衆に、「尊皇義軍《そんのうぎぐん》」の精神を説くアジ演説をさえやった。また永田町首相|官邸《かんてい》の付近には、青年団体や日蓮宗《にちれんしゅう》の信者などが押《お》しかけて、ラッパを吹《ふ》き、太鼓《たいこ》を鳴らし、叛軍のために万歳《ばんざい》を唱えたが、どこからも制止されなかった。軍首脳部や長老の動きは頻繁《ひんぱん》で、その代表者は叛軍の説得に赴《おもむ》いたが、その結果はきわめてあいまいであり、しかもその夕方には、叛軍の疲労《ひろう》をねぎらう意味で首相官邸をはじめ、鉄道、文部、大蔵《おおくら》、農林の諸大臣の官邸や、山王ホテル、料亭《りょうてい》幸楽等が彼等《かれら》の宿舎として提供された。こうした矛盾《むじゅん》にみちた報道がつぎつぎに伝わる一方、二十八日の夕刻ごろからは、九段戒厳司令部の警戒《けいかい》が次第《しだい》に厳重を加え、叛軍包囲の態勢が刻々に整って行くかのような印象を与《あた》えるラジオ放送もちらちらきこえだした。
塾生たちが最も不安の念にかられたのは、二十八日夜から二十九日にかけてであった。皇軍相討《こうぐんあいう》つ危険が、こうした報道を通じて、避《さ》けがたいものに感じられて来たのである。ことに二十九日朝のラジオはアナウンサーの切々たる情感をこめた声をとおして、戒厳司令官の兵に対する原隊復帰|勧告《かんこく》の言葉をつたえ、いよいよ事態の切迫《せっぱく》を思わせた。司令官は、その中で、すでに奉勅《ほうちょく》命令が下ったことを告げ、それに従わないものは「逆賊《ぎゃくぞく》」であるということを明言し、「今からでも決しておそくはないから、直《ただ》ちに抵抗《ていこう》をやめて軍旗の下《もと》に復帰するようにせよ。そうしたら、今までの罪は許されるのである。」と諭《さと》し、また、「お前たちの父兄は勿論《もちろん》のこと、国民全体もそれを心から祈《いの》っている。」と訴《うった》えていた。
この放送は、これまでの矛盾にみちたいろいろの報道にはっきりした終止符《しゅうしふ》をうち、一部の塾生の頭にまだいくらか残っていた義軍の観念を一掃《いっそう》するに役だった。しかしそれだけに、それはまた流血の惨事《さんじ》を間近に予想させる原因でもあった。「逆賊」と決定したものをそういつまでも放任するわけには行くまい。もしかれらが直ちに原隊復帰を肯《がえ》んじないとすると。……そう思うと焦躁感《しょうそうかん》はいやが上につのり、それがめいるような悲哀感《ひあいかん》にさえなっていくのであった。
しかし、そうした不安の中にあった塾生たちも、二十九日夕方から三月一日にかけての諸報道によって、どうなりいちおうの落ちつきを見せた。叛乱兵は、一二の下士官をのぞき、二十九日の午後それぞれ原隊に復帰し、首謀者《しゅぼうしゃ》将校のうち数名は自決、その他は検束《けんそく》されて、ともかくも事件はいちおう終わったのである。
事変中、塾堂の諸行事の運営が、時間的にも内容的にも、目だつほどの狂《くる》いを見せたことは、幸いにして一度もなかったが、気分の波が常にそれに作用していたことは、さすがに見のがせないものがあった。しかし、その波も事変がすぎてみると、たいしてながくあとをひくというほどではなかった。月があらたまるとともに、むしろ台風一過の感さえあった。事変後の国内諸状勢の深刻さは、まだ多くの塾生たちの関心のそとにあったのである。
田川大作は意気|銷沈《しょうちん》の姿であり、何事についてもほとんど発言しなくなっていた。飯島好造は相変わらず多弁で、とかく話題を政治に向けがちだったが、その興味の中心は後継《こうけい》内閣《ないかく》の顔ぶれといったことにあるらしかった。またしばしば叛乱将校の個人に関する噂話《うわさばなし》などを、何かにつけやりだしたり、口ぎたなくかれらの罪状に追い討《う》ちをかけ
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