は、それが大河の声であるということだけで、もう十分な刺激だった。しかも、その大河は、これまで読書会ではほとんど沈黙を守りつづけて来ており、真《ま》っ先《さき》に口をきったことなど、全くなかった人なのである。
 みんなが、あわててページをひらくと、大河は、ぼそぼそと読み出した。
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「翁|曰《いわ》く、何事にも変通といふ事あり。知らずんばあるべからず。即《すなわ》ち権道《けんどう》なり。夫《そ》れ難《かた》きを先にするは聖人の教へなれども、これは先づ仕事を先にして而《しか》して後に賃金を取れと云ふが如《ごと》き教へなり。ここに農家病人等ありて、耕し耘《くさぎ》り手おくれなどの時、草多きところを先にするは世上の常なれど、右様の時に限りて、草少なく至って手易き畑より手入れして、至って草多きところは最後にすべし。これ最も大切の事なり。至って草多く手重のところを先にする時は、大いに手間取れ、その間に草少なき畑も、みな一面草になりて、いづれも手おくれになるものなれば、草多く手重き畑は、五|畝《せ》や八畝は荒《あら》すともままよと覚悟して、しばらく捨ておき、草少なく手軽なるところより片付くべし。しかせずして手重きところにかかり、時日を費す時は、僅《わず》かの畝歩《せぶ》のために、総体の田畑順々手入れおくれて、大なる損となるなり。国家を興復するもまたこの理なり。知らずんばあるべからず。また山林を開拓《かいたく》するに、大なる木の根はそのままさしおきて、まわりを切り開くべし。而して二三年を経《へ》れば、木の根おのづから朽《く》ちて、力を入れずして取るるなり。これを開拓の時、一時に掘《ほ》り取らんとする時は労して功少なし。百事その如し。村里を興復せんとすれば必ず反抗《はんこう》する者あり。これを処するまたこの理なり。決して拘《かかわ》るべからず、障《さわ》るべからず。度外に置きてわが勤めを励《はげ》むべし。」
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 ぼそぼそと読み出した大河無門の声は、おわりに近づくにつれて、次第に高くなり、澄んで来た。そして最後の一句を、思い切り張った調子で読みおわると、また、ぼそぼそとした声で言った。
「さっき田沼先生に事件のお話をきいたあとで、ページをめくっていると、偶然《ぐうぜん》この一節が眼にとまりました。何だか関係があるような気がしたので読んでみたんです。それだけのことで、べつに感想はありません。」
 塾生たちは、同じページにあらためて眼を走らせはじめた。朝倉先生は眼をつぶって何度もうなずいていた。その中で、次郎だけが、こわいものでものぞくように、遠くから大河の横顔を見ていた。
 その時、田沼先生の自動車が玄関をはなれる音がきこえた。つづいて小川先生と朝倉夫人のスリッパの音がきこえたが、それは廊下をつたって塾長室のほうに消えた。次郎はそれを意識しながらも、眼を大河からそらすことができなかった。大河の表情には、ふだんとちっとも変わったところがなかったが、それがかえって次郎の心を強くとらえていたのである。
 そのあと、読書会はいつもとあまり変わりなく進められたが、大河のなげかけた問題は、たいして論議の種にならないですんでしまった。大多数の塾生たちの頭では、大河の読みあげた一節と東京の異変とが、すぐには、ぴんと結びついて来なかったらしいのである。朝倉先生も、それを夜の研究会にゆずるつもりか、強《し》いては深入りしようとしなかった。
 読書会のあとは軽い室内体操、つづいて音楽。それがすんだのが四時半で、それから五時半の夕食までは自由時間だった。塾生たちがその時間を、異変の話についやしたのはいうまでもない。どの室からも興奮した声がひっきりなしに流れた。
 一方、塾長室では、小川先生と朝倉夫人に朝倉先生と次郎とが加わって、ひそひそと話しあいをはじめた。話は、しかし事変そのもののことよりも、事変が塾に及《およ》ぼす影響《えいきょう》についてのことが多かった。
 小川先生は言った。
「さきほど玄関口で理事長からちょっとおききしたところでは、荒田さんが変なことを思いついているらしいですよ。」
「変なこと? 何でしょう。」
 と、朝倉先生が眼を見はると、

「全国の私設の青年指導機関の連合組織を作ってはどうか、というんだそうです。」
「それで思想を統制しようとでもいうんですか。」
「むろん、そうでしょう。表面は連絡《れんらく》提携《てけい》とか、共励《きょうれい》切瑳《せっさ》とかうたうでしょうが。」
「そんなこと、急に思いついたんでしょうか。これまで私はまだ一度も耳にしたことがありませんが。」
「さあ、それはわかりません。理事長もさっきの電話ではじめてきかれたらしいんです。何でも、荒田さんは、今度のような事件がおこるのも、国民の頭のきりかえができていないからだ、それには青年の指導者に大きな責任がある、とかいって、大変、息まいていられそうです。」
「なるほど。それで、そういうことをまずここの理事長と話し合おうというのですね。」
「荒田さんの電話では、ここの理事長のほかに、小関君が相談にのるらしいのです。」
 小関というのは、古い文部|官僚《かんりょう》で、こちこちの国家主義者としてその名が通っており、在官中から「興国青年塾」という私塾を腹心《ふくしん》の教育家に経営させ、退官後は、自らその指導の中心になっている人であった。友愛塾に対しては、その創設当時から好感をもっていない一人だった。人物は、正直そうに見えて策《さく》があり、それに神経質なところもあって、気にくわないことがあると、いつまでも陰気《いんき》に押しだまっているといったふうであった。したがって、友愛塾の関係者は、これまでなるべくその人との接触《せっしょく》をさけるようにして来ていたのである。
「小関さんが?」
 と、朝倉先生はかなりおどろいたらしく、
「理事長も、荒田さんと小関さんの二人を相手では、お骨が折れるでしょう。これは、ひょっとすると、全国的連合組織に名をかりて、友愛塾を窒息《ちっそく》させる算段かもしれませんね。」
「私もそれを心配しているんです。じつは、もうずいぶん前のことですが、ある会合で小関君と偶然《ぐうぜん》隣《とな》りあわせにすわったことがあったんです。その時、小関君は私に青年塾の話をしだして、現在東京付近にある青年塾で、最も特色があり、各方面の注目をひいているのは、興国塾と友愛塾の二つだと思うが、お互《たが》いに塾そのものの内容をいっそう充実《じゅうじつ》させるためにも、また、双方《そうほう》の塾生が地方に帰ってから気持ちよく提携ができるようにするためにも、今後は二つの塾がもっと連絡を密にする必要がある、といったような意味のことを言っていました。私は、それを正面から受け取って、小関さんにしては珍《めずら》しいことを言うと思って感心してきいていましたが、今から考えると、もうそのころから、何か変なことを考えていたんじゃないかという気がしますね。」
「連絡を密にするということでは、実は私にも小関さんから一度お話がありました。ところが、その具体的な方法というのが、おりおり日を定めて、双方の塾生を交換《こうかん》して指導したり、あるいはいっしょにして討論会みたようなことをやらせたりしようというのですから、こちらとしては、どうもお受けするわけには行かなかったのです。」
「ふうむ。そんなことで友愛塾を押しつぶそうなんて、小関君もなかなかの自信家だな。すると、今度もその手で来るかもしれませんね。」
「そういうことも考えられますが、まさか理事長がそれをご承諾《しょうだく》なさるようなことはありますまい。」
「ええ、それはだいじょうぶ。しかし今度は理事長もお骨が折れますね。何しろあの荒田老人が正面きって口をききだしたんですから。」
 それまでだまって二人の話をきいていた朝倉夫人が、涙声《なみだごえ》になって言った。
「ほんとうに、田沼先生のお気持ちはどんなでございましょう。先生は、どういう方に対しても、けんか別れなんか決してなさらない方ですし、そして守るところはちゃんとお守りになる方だけに、なみたいていのご苦心ではなかろうと思いますわ。」
 次郎は、むろん、田沼先生の強い面もあたたかい面も、もう知りすぎるほど知っていた。しかし、先生が大きな難局に当面して、その二つの面を、実際にどう調和して行くかを、まのあたりに見たことがなかった。かれは、眼をふせて、三人の対話の様子を想像した。荒田老の怪物《かいぶつ》のような顔とならんで、まだ一度も見たことのない小関という人の顔がうかんで来たが、それは血色のわるい、頬《ほお》のこけた胃病|患者《かんじゃ》のような顔で、眼だけがいやに光っていた。その二人と向きあっている田沼先生の顔は、にこにこ笑っているようでもあり、ゆたかな頬を紅潮さして、きっと口を結んでいるようでもあった。
「でも、田沼先生にはちゃんとしたお考えがおありでございましょうし、あたしなんかが、こんなことご心配申しあげるの、かえって失礼でございますわね。ほほほ。」
 と、朝倉夫人はさびしく笑ったあと、次郎のほうを向いて、
「あたしたち、こういう時に、しっかり世の中のことを勉強さしていただきましょうね。いい機会ですわ。」
「ええ。」
 と、次郎はうなずいたが、いかにも心細そうな、元気のないうなずき方だった。
 それから間もなく、朝倉夫人は炊事《すいじ》のほうの用で塾長室を出て行き、あとは三人で夕食になるまで話しこんだ。その話の間に、次郎は、友愛塾に対する軍部の圧迫《あっぱく》が、荒田老や小関氏を通じてばかりでなく、かなり以前から文部省を通じても加えられており、その間に処しての田沼理事長の苦労が一通りでなかったことを知った。
 夜の研究会には、小川先生も自ら進んで加わった。
 討議は、なまなましい異変を中心題目にして、最初から興奮の渦《うず》をまいた。塾生の大多数は、どうなり友愛塾生活の意義だけは理解しており、不十分ながらもその実践《じっせん》にも努力して来たのであるが、それがかれらの生活感情に焼きついて動かないものになるまでには、まだ多くの時日を必要とした。かれらの血を染めているのは、何といっても過去の社会|環境《かんきょう》であり、軍国主義的指導者によって植えつけられた思想であった。ことに最近は独逸《ドイツ》のナチズムや伊太利《イタリー》のファッシズムの大波に上下をあげてもまれている時代であり、その影響《えいきょう》にくらべると、まだ一か月にも足りない友愛塾生活の影響など物の数ではなかった。ちょっとしたきっかけさえあれば、それはあとかたもなく消え去るような、根の浅いものでしかなかったのである。したがって、かりに田川大作のような狂熱的《きょうねつてき》青年がいて、血涙《けつるい》をふるって叛軍《はんぐん》に同情するようなことがなかったとしても、塾生たちが冷静でありうる道理がなかった。事実、かれらの半数は、田川の側に立って激《はげ》しい意見を述べ、他の半数も叛軍の行動には、かなり批判的でありながら、あからさまにそれを叛軍と認めるには忍《しの》びない、といった意見であった。こうして、意見は塾生相互の間で戦わされるよりも、むしろ、朝倉・小川の両先生と塾生たちの間に戦わされる場合が多かったのである。
 二人の先生の言葉の調子は、その風貌《ふうぼう》の異なるように異《ちが》っていた。朝倉先生の澄んだ張りのある声は、水のようにさわやかに流れ、小川先生のさびた低い声は、ごつごつと石がころがるように断続した。しかし、両先生が、あくまでも真剣《しんけん》にかれらと取りくみ、かれらのどんな言葉に対しても熱心にうけ答えをしたという点では、変わりはなかった。こうした場合、塾生に十分ものを言わせなかったり、言うことを聞き流しにしたり、冷笑をもって迎《むか》えたりすることが、どんな結果をもたらすかを、両先生ともよく心得ていたのである。しかし、さればといって、両先生は、その真剣さと熱心さ
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