《びしょう》しながら、
「あたくしどもの苦労なんて、苦労のうちにははいりませんわ。どうせ先生のおあとをついてまわるだけですもの。ほほほ。」
夫人は、しかし、そのあとすぐしんみりして、
「でも、この塾はどうなるんでございましょう。あとにどなたか……」
「それは、あなた方と運命をともにするよりほかありませんね。」
田沼先生は、きっぱりこたえた。すると、小川先生がどもるような声で、
「理事長、すると、あなたはもう、塾の閉鎖《へいさ》まで決心されているんですか。」
「ええ、最悪の場合は、こちらが決心しなくとも、自然そうなるでしょうし……」
「しかし、それは避《さ》けられないことではないでしょう。」
「むろん、避けられるだけは避けます。無用な摩擦《まさつ》をおこして自分から最悪の事態に落ちこむようなことはしないつもりです。しかし大義名分をみだすようなことにまで、お調子をあわせるわけには行きますまい。」
「軍では、もう、そういうことについて、何かいいだしているんですか。」
「正面きって何もいいだしているわけではありません。しかし、叛乱とか叛軍とかいう言葉は、今のところ絶対|禁物《きんもつ》のようです。それをはっきり口に出したら、それだけで、最悪の事態におちいるかもしれません。今朝の状勢では、そうとしか思えませんでした。今度の場合は、しかし、何としてもそれに妥協《だきょう》するわけには行かないと思います。友愛塾が、そのために犠牲《ぎせい》になっても、いたし方ないでしょう。身を焼いて灰からよみがえるという不死鳥の覚悟をしようじゃありませんか。」
小川先生は、大きな息をして眼をつぶった。そして眼をつぶったまま、ひとりごとのように言った。
「惜《お》しい、実に惜しい。こういう塾こそ今の時代の良心なんですがね。」
「その良心を守ろうというんです。ははは。」
と、田沼先生は快活に笑った。
次郎は小川先生の気持ちにしみじみとした共感を覚えていた。そのせいか、田沼先生の笑い声に腹がたつような気持ちがした。すると、朝倉先生が言った。
「どうだい、本田君、理事長のおっしゃるような覚悟ができたかね。」
次郎は田沼先生のほうをぬすむように見ながら、
「ぼくは、この塾では、事件を無視することにしたらいいと思っているんです。」
「無視する、というと?」
「いっさい、ふれないんです。ふれないでおいて、ふだんのとおりの生活を、おちついてやって行くんです。」
「おちつくのはいい。しかしこれほどの事件を無視するわけには行かんだろう。われわれが無視しようとしても、いずれどういう形でか新聞にも出るだろうし、塾生たちが問題にしないではおかないよ。その時、君はどうする? にげるかね。」
次郎は返事ができなくて、顔をあからめた。すると、今度は田沼先生が微笑しながら、
「無視するとはうまく考えたな。いかにも本田君らしい。しかし、それは一種の小細工《こざいく》だ。そういう小細工はやらないほうがいい。やはり塾生を愛することだよ。塾生の良心をね。その愛さえあれは、塾堂はつぶれても、塾はどこかで生きる。塾長、そうでしょう。」
「ええ、そうですとも。」
朝倉先生が答えた時には、次郎はもう椅子《いす》をはなれて棒立ちになっていた。田沼先生の言った「小細工」という言葉が、鋭《するど》い刺《とげ》のようにかれの胸をつきさしていたのである。かれは何か言おうとしたが、言葉が出なかった。
「そう窮屈《きゅうくつ》にならんほうがいい。」
と、田沼先生はにこにこ笑いながら、
「窮屈になるから、やることがつい小細工になるんだよ。君の真剣《しんけん》なのはいいが、人間は大事な時ほど大らかでないと、的をはずしてしまうものだ。ちょうど火事の時にくだらんものを持ち出すようなものでね。はっはっはっ。」
次郎は、しかし、笑うどころではなかった。田沼先生のきわめて自然な、的をはずさぬ物ごとの判断が、その深い人間愛から流れ出ているということに気がつけばつくほど、かれは、かれ自身の気持ちが、いよいよ窮屈さと不自然さの中に追いこまれて行くような気がするのだった。
「わかりました。」
かれは、ばかに声に力を入れてそう言ったが、それはほんとうに納得《なっとく》したというよりは、しいて言葉をはげまして、自分の不安をはらいのけているといった調子だった。
ちょうどその時、午後の行事を報ずる板木《ばんぎ》が鳴った。次郎はそれをきくと、逃《に》げるように室をとびだした。
読書会は、広間の畳《たたみ》に、食卓を四角にならべてやることになっていた。塾生たちが「二宮翁夜話《にのみやおうやわ》」を持って席につき終わったころには、三先生ももう顔をならべていた。朝倉夫人は、読書会には、ふだんは手すきの時だけ顔をだすことにしていたが、今日はむろんはじめから、次郎とならんで席についていた。
「今日は、非常に残念なことを、諸君の耳に入れなければならないが――」
と、田沼先生は、いつものにこやかな態度に似ず、いかにも苦しそうに話し出した。言葉はきわめて平凡《へいぼん》で、刺激的《しげきてき》な形容詞など一語も使わなかった。ただ実際に見聞した事実を、それも要点だけ、ごく手短かに話したにすぎなかった。ただ最後に、いくぶん調子をつよめて言った。
「勅命《ちょくめい》なくして兵を動かし、重臣を殺害したということは、明らかに叛乱だ。そういうことが日本にあろうとは、諸君は夢《ゆめ》にも思わなかったにちがいない。しかし残念ながらこれは事実だ。私は、今日は取りあえずその事実だけを諸君の耳に入れておく。いずれこれからは、いろんな報道がつたわるだろうと思うが、その中には、デマもあるだろうし、雑音もまじるだろう。しかし、私が話したことだけは、間違《まちが》いのないことだから、それを基礎《きそ》にして、これからのすべての報道を冷静に判断してもらいたい。」
塾生たちのうけた衝撃《しょうげき》は、むろん大きかった。先生の言葉が、いつもに似ずしぶりがちで、しかも簡単だったのが、かえってかれらに気味わるい感じを与《あた》えたらしかった。次郎は、かれらが眼を光らせ、耳をそばだてて聞いている沈黙《ちんもく》の底に、すさまじく渦《うず》を巻いている感情の嵐《あらし》を明らかに感ずることができた。
話がおわったあと、しばらくは部屋中が凍《こお》ったようにしんとしていた。かなりたって、塾生の一人が、だしぬけに、
「先生!」
と、叫《さけ》んだ。田川大作だった。かれは自分のまえにおいた「二宮翁夜話」をにぎりこぶしで押《お》しつぶすようにしながら言った。
「ぼくたちは、実は、こういうことになりはしないかと、とうから心配していたんです。」
田沼先生は返事をしないで、じっと、田川の顔を見つめたきりだった。すると田川は、
「ぼくは二年近く満州にいたんですが、あちらから見ていると、日本の政治はだらしがなくて、なっていないんです。」
「そういう見方もあるようだね。」
田沼先生が、あっさりそうこたえて、眼を朝倉先生のほうにそらしかけると、田川は追っかけるように、
「先生は、どうお考えですか。」
「私も、日本の政治がこのままでいいとは思っていない。しかし、だからといって、そのために、今度のような事件が起こるのもやむを得ないなどとは、なおさら思わない。日本には、憲法というものがあるからね。」
「ぼくは、政党がこんなに堕落《だらく》していては、議会政治なんかだめだと思うんです。」
「なるほど。」
と、田沼先生はまじめにうけて、
「どうです、朝倉先生、今の意見は日本が憲法政冶を否定するかどうかという大問題をふくんでいるようですが、あとでじっくり時間をかけて話しあってみられては?」
「ええ、そういたしましょう。」
と、朝倉先生もまじめにこたえ、次郎のほうを向いて、
「今夜の研究会の問題は何だったかね。」
「青年団と政治ということになっています。」
「じゃあ、ちょうどいい。今夜は、今度の事件を中心に、いま、田川君が言ったような問題をまず論じあって、それから、青年団と政治の問題にはいることにしよう。……どうだい、研究部のほうは、それでいいね。」
「結構です。」
答えたのは青山敬太郎だった。今週は第三室が研究部を受け持っていたのである。
みんなの興奮した感情は、しかし、事件についての論議を夜までのばす気持ちにはなれなかったらしく、あちらこちらで不服らしい私語がはじまった。すると、飯島好造が心得顔にいった。
「読書会を夜にして、このまま話をつづけたらどうでしょう。夜になると、田沼先生も小川先生も、いらっしゃらないでしょう。こんな話は、やはり両先生にもきいていただくほうがいいと思うんです。」
「私は、そうゆっくりはしておれない。」
と、田沼先生は腕時計を見ながら、
「それに読書会は読書会で、あたりまえにやるほうがいい。何もあわてることなんかないんだからね。やはり、朝倉先生がいつもいわれるように、大事なのは平常心だよ。それをなくしちゃあ、伺を話しあってみても、いい結論が生まれるわけがない。」
そのとき、事務室から、けたたましい電話のベルの音がきこえて来た。次郎は、はじかれたように座を立って行ったが、すぐもどって来て、かなり興奮した調子で、田沼先生に言った。
「荒田《あらた》さんからです。急に先生にお目にかかりたいんですって、ご自分でこちらに来てもいいといわれますが、どうご返事しましょう。」
「そうか。」
と、田沼先生はちょっと首をかしげたが、
「私、電話に出てみよう。」
田沼先生が広間を出て行くと、みんなは申しあわせたように黙《だま》りこんで耳をすました。先生の電話の声がはっきりきこえるわけではむろんなかったが、そうしないではいられない気持ちだったのである。
間もなく田沼先生は広間の入り口までもどって来て、
「じゃあ、私、いそぎますから、これで失礼します。」
朝倉先生が立とうとすると、
「私にかまわず読書会を始めてください。予定を狂《くる》わしてすみませんでした。」
それから、塾生たちみんなに軽く会釈《えしゃく》したあと、急いで。玄関《げんかん》のほうに去った。
見おくりには、朝倉夫人と小川先生とが立って行き、あとは読書会のいつもの顔ぶれだけになった。
読書会では、テキストのページを追って輪読《りんどく》する場合もあったが、「二宮翁夜話」の取り扱《あつか》いはそうではなかった。あらかじめ、めいめいのひまな時間にその幾節《いくせつ》かを読んでおき、その中から、心にふれたとか、疑義があるとかいうような節をだれからでも発表して、それについて相互《そうご》に意見を述べあうといったやり方であった。このやり方は、実は次郎の提案によるもので、それが「二宮翁夜話」の場合、特に適切であったせいか、毎回非常な成功をおさめ、塾生たちのそれを読む態度もそのために次第《しだい》に真剣味をまして来ていたのであった。
ところが、今日はかなり様子がちがっていた。いつもだと、朝倉先生が、「では、だれからでも……」と口をきると、先を争うようにして幾人《いくにん》かの塾生が手をあげるのだったが、今日は、それどころか、かんじんの「夜話」をひらきもしないで、ひそひそと私語をつづけているものが多かった。それに、第一、次郎自身の様子がおかしかった。かれは私語こそしなかったが、その眼は廊下《ろうか》の硝子戸《ガラスど》をとおして、食い入るように玄関のほうを見つめていた。玄関では、田沼先生が小川先生と朝倉夫人とを相手に、まだ立ち話をつづけていたのである。
朝倉先生は、しかし、みんなのそんな様子を見ても、べつに注意をうながすのでもなく、その澄《す》んだ眼に微笑をうかべて、しずかに待っていた。
すると、大河無門がだしぬけに言った。
「巻の一の第二十八節をぼくに読ませてもらいます。」
その声は、例の落ち葉をふむような低い声だったが、みんなの私語をぴたりととめた。だれよりもぎくりとしたのは次郎だった。次郎にとって
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