都合でした。」
 次郎は、二人がそういって塾長室にはいるのを、自分もあとについてはいりたい気持ちで見おくっていた。すると、すぐ耳のうしろで、いきなり、中食を報ずる板木《ばんぎ》の音が鳴りひびいた。
 食事は、まもなくはじまった。むろん、田沼、朝倉、小川の三先生も、塾長室で話をするいとまもなく、食卓に顔をならべたのだった。塾生たちは、田沼先生が塾に顔を出すのは珍《めずら》しいことではなかったので、雪をおかしてやって来たのを、べつにあやしむふうもなく、ただ親しみをこめた眼《め》で迎えただけだった。三先生の食事中の対話も、いつもとたいして変わりはなかった。すべては平日《へいじつ》どおりだった。
 次郎の気持ちは、しかし、はじめからおわりまで、緊張《きんちょう》そのものだった。かれの眼はたえず田沼先生のほうに注がれ、その一挙一動をも見のがさなかった。先生は、肥満型《ひまんがた》で、血圧が高かったため、酒も煙草《たばこ》もたしなまなかったが、その代わりに、非常な健啖家《けんたんか》で、速度もなみはずれてはやく、それがしばしば食卓の笑い話の種になるほどだった。今日も相変わらずだったが、先生は何杯目《なんばいめ》かのお代わりを朝倉夫人によそってもらいながら、とうとう自分から笑いだして言った。
「だしぬけに飛びこんで来て、こんなに食べても、だいじょうぶですかね。」
「ええ、ええ、ご安心なすって。そのつもりで、こちらのお鉢《はち》にうんと入れておきましたから。ほほほ。」
「それはどうも。……しかし、今日はとくべつですよ。何しろ、暗いうちに茶ものまないでうちを飛び出して、やっと昼飯にありついたというわけですからね。」
 田沼先生は、そう言って、もう一度大きく笑った。しかし、朝倉夫人はもう笑わなかった。笑いかけていた朝倉先生や小川先生の顔も、何かにつきあたったように固くなった。そうした顔を見くらべていた次郎の眼は、もう一度、田沼先生のほうに注がれたが、その時には、田沼先生も次郎のほうを見ていた。二人の眼はあってすぐはなれた。しかし、次郎には、何で田沼先生が自分のほうを見たかがわかるような気がした。
 食事がすむと、いつもなら、各部から緊急な報告や、ちょっとした生活上の注意などをやり、そのあと五分か七分雑談をやってすごすことになっていたが、塾生たちは、田沼先生が食卓に顔を出すと、きまってその雑談の時間を先生に提供することにしており、先生もそのつもりで、いつも何かちょっとした話の種を用意しているのだった。ところが、今日は、その時間になると、すぐ朝倉先生が言った。
「今日は、田沼先生は、あとですこし時間をかけて、ある大事なことを諸君にお話しくださるはずだから、いつものおねだりはやめにして、これで解散する。午後は読書会の時間になっているが、その時間にお話をうけたまわることにしたい。お話がすんだあと、読書会がやれるかどうかわからないが、その用意だけはしておいてもらいたい。」
 塾生たちはいつにない緊張した顔をして食卓をはなれた。
 そのあと、塾長室には、三先生のほかに、朝倉夫人と次郎とが集まった。夫人も次郎も、食卓をはなれて事務室に行きかけたところを、田沼先生に呼びこまれたのであった。
 田沼先生は椅子《いす》に深く身をうずめ、両手を前にくみ、伏目《ふしめ》がちになって話しだした。言葉の調子には、すこしも興奮したところがなかった。むしろ重々しい、考えぶかい調子だった。事変の輪郭《りんかく》は恭一《きょういち》からの電話と変わりはなかったが、もっとくわしく、具体的で、確実性があった。
 叛乱《はんらん》に参加したのは、近衛歩兵《このえほへい》第三連隊・歩兵第一、第三連隊・市川|野戦砲《やせんほう》第七連隊などの将兵の一部で、三宅坂《みやけざか》・桜田門《さくらだもん》・虎《とら》の門《もん》・赤坂見附《あかさかみつけ》の線の内側を占拠《せんきょ》し、陸軍省・陸相|官邸《かんてい》・参謀《さんぼう》本部などはもとより、警視庁もすでにその占領下《せんりょうか》にあり、各所に立てられた旗じるしには、「尊王討姦《そうんのうとうかん》」の四文字が書かれている。暗殺された重臣中、すでに確実となったのは、斎藤実《さいとうまこと》・高橋是清《たかはしこれきよ》・渡辺錠太郎《わたなべじょうたろう》、といった人々で、そのほかに、牧野伸顕《まきののぶあき》・鈴木貫太郎《すずきかんたろう》の二重臣も襲撃《しゅうげき》をうけたらしいが、その生死はまだ確実ではない。総理大臣の岡田啓介《おかだけいすけ》も消息不明だが、十中八九、官邸で殺害されているだろう、というのであった。
 なお、朝日新聞社襲撃も事実で、暗殺|終了後《しゅうりょうご》、午前九時ごろに、トラック三台に分乗した叛軍の一部が、「国賊《こくぞく》朝日を破壊《はかい》する」と叫《さけ》んで社内に乱入し、印刷局の活字ケースなどをめちゃくちゃにひっくりかえしたそうである。
 叛軍の一部は今朝から赤坂の山王ホテルに宿営している。料亭《りょうてい》幸楽も午前十時ごろ若い将校から多量の酒と弁当の注文をうけたが、ここもあるいはかれらの宿営所として占領されるかもしれない。
 田沼先生は、一通り以上のような状況を話しおわると、言った。
「何より心配だったのは、軍部の巨頭《きょとう》がこれに参加してはいないかということでしたが、それはさすがにないようです。少なくとも、今のところ、直接|指揮《しき》しているとは思えません。その点からいって、さわぎがすぐにも全軍に波及《はきゅう》するようなことは、おそらくないだろうと思います。もっとも、派閥《はばつ》を作るような巨頭連のことですから、今後どう動くか、安心はできません。現に、巨頭連の中には、叛軍の説得に行って、“ご苦労さん、よくやったね”とか、“お前らの心はようくわかっとる”とか言って、かえってご機嫌《きげん》をとったり、はなはだしいのは万歳《ばんざい》をとなえてやったものもあったそうですからね。」
「それはひどい。」
 と、小川先生はひとりごとのように言って、その鈍重《どんじゅう》な眼をぎろりと光らせたが、
「いったい、そういう人たちは、この事件を、どう考えているんでしょう。それにいくらかでも、正当性があるとでも思っているんでしょうか。」
「そこなんです、心配なのは。われわれの考え方からすると、これほど明白な叛乱はないのですが、軍首脳部で、まだ一人も叛乱という言葉をつかった人はないようです。それどころか、五・一五の場合と同じように、行動を正当づけるような名称を案出するのに苦心しているらしいのです。」
「むろん、もう陛下《へいか》のお耳にもはいっているでしょうが、陛下はどうお考えでしょう。」
「そのことは、まだ、はっきりしたことは私にはわかりません。しかし、陛下はご聡明《そうめい》です。それに――」
 と、田沼先生は、ちょっと言いよどんだが、
「ご側近《そっきん》には、湯浅《ゆあさ》内大臣のような方もおられます。内大臣はあくまでも筋の通った方だと私は信じます。」
「内大臣には危険はなかったのですね。」
「ええ、ご無事でした。」
 と、田沼先生は何かを回想するようにしばらく眼をつぶったが、
「実は、今朝ほんの五分間ほどお目にかかって来たのです。」
 みんなは眼を見はった。田沼先生は、しかし、もうそれ以上そのことについて何も言おうとはしなかった。沈黙《ちんもく》がかなりながいことつづいた。次郎はかって経験したことのない異様な興奮と、厳粛《げんしゅく》な気持ちとを同時に味わいながら、じっと先生の横顔を見つめていた。すると、朝倉先生が、沈黙をときほぐすように、たずねた。
「叛乱をおこした若い将校たちは、すると、皇道派《こうどうは》ですね。」
「ええ、まあそうだと見なければなりますまい。統制派と見られていた教育|総監《そうかん》の渡辺大将が遭難《そうなん》されたのですから……。しかし、叛乱がいずれの側からおこされたかということは、今はもう問題ではありますまい。罪は軍全体にありますよ。」
「それは、むろん、そうです。もっとつきつめると、国民全体にあるとも言えますね。」
「ええ。おたがいとしては、そこまで考えてあと始末にかかる覚悟《かくご》がたいせつでしょう。ことにこの塾堂なんかではね。」
 朝倉夫人は、眼をふせがちにして三人の話をきいていたが、
「叛乱に参加している人数は、すべてで、どのくらいでございましょう。」
「千四五百のところらしいのです。むろん正確ではありませんが。」
「すると、それだけの兵隊さんが、はじめから計画に加わっていたわけなのでございましょうか。」
「そんなことはないでしょう。下士官以下は将校の命令で動いているにすぎないと思いますね。」
「そんな兵隊さんたちこそ、ほんとうにお気の毒ですわね。」
「ええ、それなんです。だれの胸にもすぐぴんとこたえるのは……。成り行きしだいでは、青年将校たちと同じように賊名《ぞくめい》を負わなければなりませんし、万一そんなことにでもなったら、実際、何と言っていいか……」
「そのうち、参加者の名前もわかるでしょうが、家族の方たちのお気持ちはどんなでしょう。」
「実は、市内の人で、自分の息子《むすこ》が参加していやしないかと、それを心配して、走りまわっている人が、もう何名もあるそうです。」
「そうでしょうともねえ。」
 みんなは、めいめいにテーブルの一点に眼をおとして、まただまりこんだ。
「そこで――」
 と、田沼先生は、ちょっと腕時計《うでどけい》を見て、
「午後の読書会は一時からでしょう。もうあと二十分しかないが、塾としてこの事件を、どういう態度で取り扱《あつか》って行きましょう。実は、私は、デマがおそろしかったので、私自身の見聞《けんぶん》で、正確なところをみんなに話しておきたいというだけの考えでやって来たんですが、塾長に何かとくべつのお考えがあれば、それもふくんでいて話すほうがいいと思いますが。」
 次郎は息をのんで朝倉先生の答えを待った。朝倉先生は、しかし、あんがい無造作《むぞうさ》にこたえた。
「塾としては、やはり理事長がさっきおっしゃったように、国民全体の責任というような考え方で行くよりほかありませんし、その点を反省させながら、できるだけ落ちついて、これまでどおりの生活をつづけて行きたいと思いますが。」
「結構ですね。」
 と、田沼先生も無造作にうなずいたが、すぐ、
「しかし、だからといって、事件の批判をあいまいにしておきたくはないものですね。」
 朝倉先生は、けげんそうな眼をして田沼先生を見つめた。すると、田沼先生は、ちょっと次郎のほうを見たあと、苦笑しながら、
「批判などというと、大げさにきこえるかもしれませんが、何も軍の内情まであばきたてて、かれこれ言おうというのではありません。そういうことは、この塾ではいっさいふれたくないし、また、ふれる必要もないと思います。しかし、叛乱軍をはっきり叛乱軍と言いきることだけは遠慮《えんりょ》してはなりますまい。それをあいまいにして、事件の全責任をただちに国民全体が負うというようになりますと、まるで筋が通らなくなります。通すべき筋だけははっきり通して、その上で、負うべき責任を全国民が負う、そういったぐあいに指導していただきたいように思いますが……」
「いや、よくわかりました。むろん同感です。国民の責任といったところで、それは要するに、満州事変以来、おっしゃるような筋を通すことに国民が卑怯《ひきょう》だった点にあるんですからね。」
 田沼先生はうなずいて、じっと眼をふせた。そして、しばらく考えていたが、
「しかし、筋を通すには、それだけの覚悟がいりますね。」
 と、今度は朝倉夫人のほうに眼をやり、急に、じょうだんめかして、言った。
「奥《おく》さん、五・一五事件の折りは、大変いやな思いをなすったんですが、もう一度ご苦労をおかけするかもしれませんよ。」
「ええ、ええ。それが必要でしたら。」
 と、夫人も微笑
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