せまい室内を歩きまわりながら、暗殺された重臣たちの顔ぶれを想像して見た。それは、しかし、かれには皆目《かいもく》見当がつかなかった。また、かれは、全国の軍隊が真二つに割れ、敵味方になって弾丸《たま》をうちあう場合のことを想像してみた。内乱などということは、外国のできごとだとしか考えていなかったかれにとっては、それは全く思慮《しりょ》にあまることだった。まさか、という気持ちと、今にもそこいらから銃声がきこえて来そうに思える気持ちとの間に、かれはただ、うろうろするばかりであった。
友愛塾の運命、ということが、しだいにかれの頭をなやましはじめた。それは内乱というとほうもない大きな事態の下では、まるで問題にならない些事《さじ》のようにも考えられたし、また、その反対に、そういう事態になるような国情だからこそ、かえって軽視できない、というふうにも考えられた。しかし、いずれにせよ閉鎖《へいさ》の運命はまぬがれないだろう。内乱状態が間もなく鎮定《ちんてい》されるにせよ、ながくつづくにせよ、また、いずれの派閥《はばつ》によって勝利が占《し》められるにせよ、政治の全権が軍の手に握《にぎ》られる以上、こうした種類の青年指導機関が、無事にその存在を許されるはすがない。それどころか、危険はあるいは、田沼先生や、朝倉先生や、小川先生などの身辺にまで及《およ》ぶかもしれないのだ。
かれは、そこまで考えると、田沼先生が、今日雪をおかしてさっそくここにやって来られる意味がわかるような気がして、いよいよ落ちつけなくなって来た。そんなことは考えすぎだ。ぱかな! と何度か自分を叱《しか》ってみたが、気持ちはどうにもならなかった。
講義が中休みになったらしく、廊下を歩く塾生たちのにぎやかな笑い声がきこえた。次郎の耳には、それが変にうつろにひびいた。そのうちに、二三名の塾生が事務室にはいって来て、すみの机で謄写版《とうしゃばん》をすりだした。――塾生たちは、分担の仕事の種類によっては、そのための特別の時間を与《あた》えられていなかったので、それを間にあうように果たすためには、どんなわずかな休み時間をでも活用することを怠《おこた》るわけには行かなかったのである。
謄写版をすりながら、かれらは話しだした。最初に口をきったのは、たしか青山敬太郎だった。
「農村の科学化とか共同化とかいうことも、あんなふうに話してもらうと、なるほどと思うね。」
「ぼく、これまで同じような題目の話をほうぼうできいたが、今日ほどぴんとこたえたことはないよ。内容に大したちがいはないがね。」
「やっぱり話す人の人柄《ひとがら》が大事なんだな。」
「そう言うと、ここに来る先生は、外来の先生でも、人柄に一派通ずるところがあるんじゃないかな。」
「うむ、どの先生もしみじみとしたところがあって、本気でぼくたちのことを考えていてくれるという気がするね。」
「ぼくは、はじめのうち、この塾の先生たちには、何だか活気がなくて物足りない気がしていたんだが、今から考えてみると、こちらが上《うわ》っ調子だったんだね。」
「それは、おそらく、君だけじゃないだろう。入塾式の日には、たいていの塾生が田沼先生や朝倉先生の話よりも、平木中佐の元気な話に感激《かんげき》したんだからね。」
「ははは。……しかし平木中佐だって、ふまじめではないだろう。あの人はあの人なりに、本気で日本の青年のことを考えているにちがいないよ。」
「それはそうかもしれない。しかし本気ぶりがちがうよ。自分の考えだけに夢中《むちゅう》になって、国民の地についた日常生活のことなんか、まるで忘れてしまっているような本気では困るね。」
「そうだ。そういうことが、ぼく、この塾にはいってから、よくわかって来たような気がする。」
「そういうことのわかった青年が、一村に五六名もいると、心強いんだがね。」
「そうだ。ぼくも、このごろしみじみそういうことを考えているよ。それで、ぼくの村からは、このつぎにもぜひだれか入塾させたいと思って、昨日手紙を出してすすめておいたんだ。」
「すいぶん手まわしがいいね。ぼくもさっそく手紙を書くことにしよう。」
次郎は仕切り戸ごしにそんな話し声をきいていて、泣きたいような喜びを感じた。しかし、その喜びは、かれを一そう憂《ゆう》うつ[#「うつ」に傍点]にする原因でしかなかった。
(これほど塾生たちが期待してくれているこの塾の運命も、遠からず決定するのだ。何という矛盾《むじゅん》だろう。何という大きな損失だろう。)
かれは、そう考えて、地だんだをふみたい気持ちだったのである。
まもなく、また講義がはじまり、事務室も廊下も、ひっそりとなった。次郎は、休みの時間に塾長室で、今日の事変のことを朝倉先生から聞かされたにちがいない小川先生が、どんな講義をされるか、きいてみたい気持ちで一ぱいだったが、電話のことが気がかりで、やはり自室に残っていた。
かれの眼は、べつに見る気もなく、机の上にひらいたままの「歎異抄」にそそがれた。そして、最初に眼にとまったのは、つぎの一節だった。
「念仏は、行者《ぎょうじゃ》のために、非行非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にあらざれば、非善といふ。ひとへに他力《たりき》にして、自力をはなれたるゆゑに、行者のためには、非行非善なり。」
かれは、これまで、こうした絶対自力否定の言葉に強く心をひかれていた。それは、しかし、その言葉を素直《すなお》に受けいれてのことではなく、むしろその反対に、素直に受けいれることのできない自分の心のいたらなさをもどかしく思うからのことであった。どうして自分はこうも自分にとらわれるのだろう。自分の力ではどうにもならないということがはっきりわかっている場合でも、自分は身を投げ出して人の助けを求める気にはどうしてもなれない。何というあくどさだ。いや、何というけちくささだ。自分はかつて白鳥会時代には、「無計画の計画」とか、「摂理《せつり》」とかいう言葉を自分の心のよりどころにして、明るく人生を眺《なが》める態度を養って来たつもりであったが、それは単なる観念の遊戯《ゆうぎ》にすぎなかったのか。――そういった反省の気持ちで、かれはこれまで、その一節と取っくんで来たのである。
ところが、今は全く別の方向にかれの気持ちが動き出していた。もしこの一節に真理があるとするならば、友愛塾とはいったい何だ。たとえひそやかなものではあっても、その時代への抵抗《ていこう》は決して「非行」ではないはずだ。民族生活の将来に描《えが》くその理想と、その実現のための実践《じっせん》は、決して「非善」とは言えないはずだ。「わがはからひ」を否定して、何の人生があり、何の喜びがあろう。生命とは、自主自律の力そのものを言うのではないのか。「念仏」だけでは、東京の事変はかたづかないのだ。――
かれの心には疑惑《ぎわく》の嵐《あらし》が吹きはじめた。これまで胸の底ふかく培《つちか》い育てて来た「歎異抄」の魅力《みりょく》が、それで根こそぎになるというほどではなかったが、その枝葉の動揺はかなり激《はげ》しかった。かれはせっかちに、ページを先にめくり、またあともどりした。しかし、どこにもかれの疑惑を解く鍵《かぎ》は見つからなかった。それどころか、かれはただ親鸞《しんらん》にあざけられるような気がするばかりだったのである。
火鉢《ひばち》の火は小さくなっていて、さすがに寒さが身にしみた。次郎は、「歎異抄」をばたりと閉じ、それを本立てに立てると、事務室に行って、ストーヴのそばの椅子《いす》に腰《こし》をおろした。事務室には給仕の河瀬もいなかった。
柱時計《はしらどけい》を見ると、もう十一時を二十分ほどすぎていた。かれは、昼ごろには田沼先生が見えることを思い出し、走って炊事室《すいじしつ》に行き、中食の用意を臨時に一人分だけ加えておくように頼《たの》むと、またすぐ事務室にもどって来た。そして、いきなりストーヴの火をかきまわし、それに、石炭を何ばいもつぎたした。変にめいるような、それでいて何かしないではいられないような気持ちだったのである。
そこへ、朝倉夫人がはいって来た。ふだんは、美しくひらいた眉根《まゆね》が、引きつるように、よっていた。
「次郎さん、東京は、まあ、大変ですってねえ。」
「ええ、おききでしたか。」
「たった今、塾長室できいて来ましたの。」
「それで、今日は田沼先生がおいでになるそうです。」
「それもうけたまわりましたの。――でも、恭一さん、よく気をきかして早くお知らせくだすったわね。」
「大沢君と二人で、塾のことを心配しているらしいんです。」
朝倉夫人は何度もうなずいたきり、それには返事をしなかったが、しばらくして、
「五・一五事件の時も私たちいやな思いをしましたけれど、今度はそれどころじゃないらしいわね。でも、世間の人たちは、あのころよりか、かえって目を覚まして来ているんじゃないかしら。」
「そうかもしれません。しかし、それだけに、無理な圧迫《あっぱく》もいっそうひどくなるでしょう。」
「そうね。悪い時代って、そんなものね。」
と朝倉夫人は、しばらく何か考えていたが、
「でも、おちつきましょうよ。せめて、あたしたちだけでもおちつかないと、これから育つ人たちに申しわけありませんわ。それにながい目で見ると、世の中は、おちついてあたりまえのことをする人の希望どおりに、きっとなっていくものですわ。あたしそう信じるの。」
次郎は、何か心のなごむような気持ちで、じっと眼をふせていた。心の動揺を感じたあと、夫人と二人きりで話していると、かれはいつとはなしにそんな気持ちになるのだった。夫人の言葉の内容にそれだけの説得力があるわけでは必ずしもなかったが、その言葉のはしばしからにじみ出るものが、かれのいらだつ神経をやわらかになでてくれたのである。
ストーヴは底ごもるような音をたて、鉄の膚《はだ》をほの赤くぼかしており、窓外の木々は雪をかぶってどっしりと重かった。
「ぼくには、落ちつくということ、まだよくわからないんです。」
次郎は、かなりたって、ぽつりとそんなことを言った。それはしかし、朝倉夫人に対する抗議《こうぎ》ではむろんなかった。また、かれの深い苦悶《くもん》の表白であるとも言えなかった。うら悲しいような、甘《あま》えたいような気持ちが、自然にそんな言葉となって、かれの唇《くちびる》をもれたといったほうが適当だったのである。
一〇 異変(※[#ローマ数字2、1−13−22])
田沼《たぬま》先生が、雪をけって自動車をのりつけたのは、もう小川先生の講義もすみ、食事当番の塾生《じゅくせい》たちが広間に食卓《しょくたく》の準備をはじめていたころであった。次郎が胸をどきつかせながら出迎《でむか》えると、先生は、まだ靴《くつ》もぬがないうちに言った。
「ちょうど、昼になってしまったが、私のぶん、食事の用意ができるかね。」
「はい、用意しておきました。」
「用意しておいた? 私が来るの、わかっていたのかい。」
「ええ、お宅にお電話をしましたら、こちらにお出《い》でになるようにおっしゃったものですから。」
「ふうむ――」
と、先生が、けげんそうに次郎の顔を見ているところへ、朝倉先生がやって来て、
「お待ちしていました。雪の中を大変だったでしょう。」
「いや――」
と、田沼先生は次郎にオーバーをぬがせてもらいながら、ちょっと声をひそめて、
「東京のさわぎ、もうこちらにもわかっているんですね。」
「ええ、あらまし。……大学にかよっている、本田君の兄から電話で知らしてくれたものですから。」
「なるほど。……ここだけは別天地《べってんち》だなんて考えるわけには、いよいよいかなくなって来ましたかね。はっはっはっ。」
朝倉先生も笑った。が、すぐ真顔になり、
「実は小川博士もお待ちかねです。今日はちょうどご講義の日でお見えになっていたものですから。」
「ああ、そう。それは好
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