うした調子の中に、理論の骨組みが力強くとおっており、それを人間の誠実さが肉付けしていて、何となく鰹節《かつおぶし》の味を思わせるものがあった。なお、田沼《たぬま》理事長や、朝倉塾長とは古くから親交があり、塾創立の協力者として理事会に名をつらねていたばかりでなく、この村に住んでいる関係で、自分の講義のない日でも、ひまさえあると顔を出し、夜の座談会などにも、喜んで加わるといったふうであった。そんなわけで、次郎はもうとうから、小川先生に対しては家族的な親愛感をさえ覚え、塾生たちといっしょに、その講義をきくのを楽しみにしていたのである。――むろん、講義の骨組みは毎回大体同じであった。しかし、先生がおりおり眼をつぶったあと、じっと塾生たちを見つめてもらす言葉の中には、深い人生体験と、思索《しさく》の中から生まれた、新しい知恵の言葉があり、それが次郎をして同じ講義を何度きいてもあかせない魅力《みりょく》になっていたのであった。
 小川先生の講義は八時からはじまった。正午までの四時間を適当に二回に切って話すことになっていたが、その第一回目の半ばをすぎたころ、給仕の河瀬《かわせ》が講堂にはいって来て、一番うしろの席で講義をきいていた次郎の耳に、何かこっそりささやいた。
 次郎は、すぐ立ちあがって、河瀬のあとについて廊下に出たが、
「長距離《ちょうきょり》? どこからだい。」
「東京からです。あなたに出てもらうようにいわれました。」
「田沼先生からかな。」
「そうじゃないようです。若い人の声でした。」
 そう言っている間に、次郎はもう、事務室の受話機の前に立っていた。
 相手はあんがいにも恭一だった。次郎がどぎまぎしながら、自分の名を告げると、恭一はかなり興奮した調子で言った。
「どうだい。そちらには、まだ何も変わったことはないのか。」
 次郎は、いきなりそんなことを言われて、いよいよどぎまぎしたが、
「変わったことって、べつにないよ。……君の葉書は昨日見た。」
「見たか。しかし、あのことは、当分沈黙だ。今は、それどころじゃない。そんなことよりか――」
 と興奮する声を強《し》いておさえ、あたりをはばかるように、
「東京は大変なことになったんだぜ。」
「大変なこと? 何があったんだ。」
「真相はまだはっきりしないがね。とにかく宮城《きゅうじょう》のまわりを軍隊がとりまいていて、あの辺の交通が自由でないそうだ。」
「ふうん。」
「重臣がだいぶ殺されたらしいという噂《うわさ》もとんでいる。」
「ふうん。」
「総理大臣|官邸《かんてい》はたしかにやられたらしいんだ。そのほか、どういう人がやられたかわからんが、何でも、二人や三人ではないらしいよ。」
「ほんとうかい。」
「どうも、ほんとうらしいね。」
「すると、全くの叛乱《はんらん》じゃないか。」
「そんな風に思えるね。クーデターと言ったほうが適当かもしれんが。」
「なるほど。とにかく大変だね。街は大さわぎだろう。」
「大さわぎというより、今のところ、不安で身動きができないといった形だ。」
「オフィスや商店は戸をしめているのかい。」
「そんなことはない。丸の内付近はどうかわからないが、一般《いっぱん》は、表面べつにまだ変わった様子は見せていない。もっとも、雪のせいで、人通りも少いがね。」
「民間から暴動がおこるというような気配《けはい》はないのか。」
「それはないね。今のところは、軍人だけの仕事のように思えるんだ。もっとも、農民と何か連絡《れんらく》があるかもしれん、なんて噂もとんでいる。」
「それは、どんな人が言うんだい。」
「僕《ぼく》がきいたのは、右翼《うよく》団体に関係のある学生からだがね。」
「ふうん。もしそれが事実だとすると、いよいよ大変だね。」
「しかし、それは、僕は信じない。農村にそれほどの組織があろうとは思えないからね。」
「うむ、今のところはね。しかし、将来はわからんよ。事件の成り行き次第《しだい》では。……それで交通機関はどうなんだい。」
「ごく一部に遮断《しゃだん》されているところもあるようだが、大体は市内電車も平常通り動いている。」
「新聞や、ラジオは?」
「あっ、そうそう。何でも朝日新聞が襲撃《しゅうげき》されたという話だ。しかし、今朝はあたりまえに出ているんだから、変だよ。もっとも、事件については、まだ何も書いてないし、かりに襲撃されたとしても、そのまえに刷ったものかもしれない。……ラジオはだいじょうぶらしい。今朝は予定のプログラム通りだ。そちらでもきこえるんだろう。」
「今日はまだきいていないが……」
「そうか。しかし、これから状況《じょうきょう》は刻々変わるだろう。ぼくは今から大沢君と二人で様子を見に行こうと思っている。何かわかったら、またすぐ電話で知らせるよ。もっとも、電話なんか通じなくなるようなことになるかもしれないがね。」
 そう言われて、次郎はぎくりとしたが、しいて自分をおちつけながら、
「あぶないところに行くのはよせよ。こちらは、そう一刻を争って知らせてもらう必要はないんだから。」
「必要がないことなんかあるもんか。さっきも大沢君と話したことだが、状況次第では、塾は早く閉鎖《へいさ》したほうがいいかもしれんよ。ぐずぐずしているうちに、とんでもないことにならんとも限らんからね。」
「塾が? どうして?」
「どうしてって、友愛塾は自由主義精神の砦《とりで》なんだろう。第一番に砲撃《ほうげき》されるよ。」
 恭一の言葉の調子には、じょうだんめいたところがあった。次郎は、しかし、それを全くのじょうだんだとして受け取る余裕《よゆう》がなかった。かれの眼には、もう荒田老《あらたろう》や平木|中佐《ちゅうさ》の顔がちらつき、二人と東京の異変とが無関係なものとは考えられなかったのである。
 かれは、電話をきると、すぐ塾長室に飛んで行って、きいたままを朝倉先生に報告した。朝倉先生も、さすがに愕然《がくぜん》として、しばらくは口をきかなかったが、
「とうとうそんなことにまでなってしまったのか。おそろしいものだね。徒党《ととう》の争いというものは。」
 と、にぎっていたペンをなげすてるように机の上において、腕《うで》をくみ、眼をつぶった。
 次郎は、先生が徒党の争いといったのを、政党の争いという意味にとった。
「やはり政党の腐敗《ふはい》に憤激《ふんげき》してのことでしょうか。」
「それもあるだろう。それはたしかに事をおこす名目《めいもく》にはなる。しかし、今度のことは、おそらく陸軍内部の派閥《はばつ》争いに直接の原因があるだろう。」
「陸軍の内部にそんな争いがあっていたんですか。」
「挙国一致《きょこくいっち》」という合い言葉の本家本元《ほんけほんもと》が軍隊であり、そしてその合い言葉で、国民を刻一刻と、のっぴきならぬ羽目に追いたてているのがこのごろの軍人であるということ以外に、軍隊の裏面について何も知らなかったかれとしては、それは無理もない質問だったのである。
「去年の八月だったか、永田鉄山中将が、軍務局長室で相沢中佐に暗殺された事件があったね、覚えているだろう。」
「ええ、覚えていますとも。まだ裁判はすんでいないでしょう。」
「あれなんかも、陸軍の派閥争いの一つの犠牲《ぎせい》だよ。裁判がややこしくなるのも無理はない。」
 朝倉先生は、それから、陸軍内部の近年の動きについて、あらましの説明をしてきかせたが、それによると、全陸軍の主脳部が統制派と皇道派《こうどうは》の二派にわかれて、醜《みにく》い勢力争いをやっている、というのであった。
「何より恐《おそ》ろしいのは、両派の巨頭連《きょとうれん》が、自分たちの勢力を張るために、青年将校の意を迎《むか》えることに汲々《きゅうきゅう》として、全軍に下剋上《げこくじょう》の風を作ってしまったことだ。これがほかの社会だと弊害《へいがい》があると言っても程度が知れているが、軍隊の下剋上だけは全く恐ろしいよ。鉄砲《てっぽう》をぶっ放す兵隊を直接|握《にぎ》っているのは下級将校だからね。しかもその下級将校が、単純な頭で、勇ましく鉄砲をぶっ欲しさえすれば国力はいくらでも増進するように考えて、盛《さか》んに政治・外交・経済を論ずる。それに将軍連が心ならずも調子を合わせ、正論を圧迫《あっぱく》してとんでもない国論を作ってしまう。こうなると、まるでめちゃくちゃだよ。今度の事件にしたって、おそらく青年将校が主動者になっていると思うが、それも、もとをただせは巨頭連の派閥争いが原因さ。こんなふうで、日本も結局行くところまで行くのかな。」
 朝倉先生は、そう言って、深いため息をつき、窓の外に眼をやったが、しばらくして、
「日本では、雪の日によく血なまぐさい事件が起こるものだね。四十七士の討ち入り、桜田門外《さくらだもんがい》の変、……しかし、今度の事件ほど暗い運命的な感じのする事件はないね。何だか、国民全体が浅はかな野心《やしん》のためにくずれて行くような気がするよ。」
 朝倉先生は、これまで、どんな悲観的な問題について話しても、きく人の気持ちまでを陰気《いんき》にさせるようなことはなかった。先生の言葉の奥《おく》には、いつも強い意志が動いていたからである。しかし、今日はそうでなかった。次郎は、きいていて、くずおれそうな気持ちになり、雪の反射で異様に明るい室の空気の中に、しょんぼりと眼をふせていた。
 すると、朝倉先生は、急に自分をとりもどしたように、椅子《いす》から立ちあがり、窓のほうにあるきながら、言った。
「しかし、できてしまったことは、できてしまったことだ。悔《くや》んでもしかたがない。……すべては、どうなるかでなくて、どうするかだ。友愛塾は友愛塾として、できるだけのことをすればいい。」
 それから、次郎のほうを向いて、
「今日は幸い小川先生もおいでくだすっているし、ご都合がついたら、午後までお残り願おう。塾生には、休みの時間が来ても、そのことについては何も話さないでおいてくれたまえ。いいかげんな話をして、ただ気持ちを動揺《どうよう》させるだけでもつまらんからね。話すときには、ゆっくり時間をかけて話すほうがいいんだ。それに、恭一君からの電話だけでは、どこいらまでが確実だかもわからんし。……そうだ、さっそく田沼先生におたずねしてみよう。先生には、もっとくわしいことがわかっているにちがいない。すぐお宅に電話をかけてお出先をきいてくれたまえ。」
 次郎はいそいで事務室に行ったが、まもなくもどって来て、
「田沼先生は、今朝早くお出かけになって、お行先は、わからないそうです。しかし、お出かけの時に、昼ごろまでには友愛塾に行くから、必要があったら、そのほうに連絡《れんらく》するように、とお言い残しだったそうです。」
「この雪に、ご自分でこちらにお出《い》でになるのか。ふむ、そうか。」
 二人は、いよいよ事件の重大さを直感したらしく、だまって眼を見あった。
「では、君は今日はなるだけ事務室か、君の室かにいて、電話に気をつけていてくれたまえ。」
 次郎は、それで自室に引きとったが、机の上には、相変わらず「歎異抄」がひらかれたままだった。かれは、しかし、今はふしぎにそれに心をひかれなかった。東京の異変でゆすぶられたかれの血は、「歎異抄」とは別の世界に流れ出ようとしているかのようであった。自己|沈潜《ちんせん》の深い洞穴《ほらあな》から、急にあれ狂《くる》う嵐《あらし》の中におどりだして、胸を張り大声をあげて叫《さけ》ぼうとしている自分自身を、かれはかれの全身に感じていたのである。
 かれの眼には、宮城をとりまいて所々に配備されている機関銃《きかんじゅう》や、大砲《たいほう》や、歩哨《ほしょう》や、また、総理|官邸《かんてい》の付近に、雪を血に染めて横たわっている人間の死体や、それらの間を何か声高《こわだか》に叫びながら疾駆《しっく》している若い乗馬将校の姿などが、つぎからつぎに浮《う》かんで来た。
 かれは落ちついてすわっていることさえできなかった。
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