るのが息ぐるしくなり、その眼がこわくなって来るのだった。こんな時こそ、自分から進んで大河にぶっつかり、その助言を求むべきではないか、という気もして、何度か、かれを自分の室に招き、二人きりで、話してみたいと思ったこともあったが、いざとなると、どうしてもその勇気が出なかったのである。
 朝倉先生夫妻に対しても、いくぶん息ぐるしさを感じないではなかった。しかし、仕事の上でどうしても話しあわなければならないことが多かったので、いつもいつも二人を避《さ》けてばかりはおれなかった。それに、二人と言葉をかわしていると、やはり何とはなしに慰《なぐさ》められるような気もして、いったん話しだすと、あんがい尻《しり》がおちつくのだった。しかし、話したあとがいつもいけなかった。というのは、自分の態度に何か不自然なところがあり、それが二人の眼にとまったのではないか、と、それがいやに気になったからである。
 かれがこの数か月間、最も親しんで来たのは「歎異抄《たんにしょう》」で、今度の開塾《かいじゅく》のすこし前ごろからは、すでに書いたように、毎朝まだ暗いうちに起きて、かならずその幾節《いくせつ》かを読むことにしていたのであるが、ことにこの数日間は、ひまさえあると自分の室にとじこもり、くりかえしそれに眼をさらしては、何か考えこむといったふうであった。
 かれが最初「歎異抄」というものを読んでみる気になったのは、実は、それが宗教の古典として非常に有名であるというだけの理由からにすぎなかった。しかし、一度それに眼をとおすと、これまでの読書の場合とはまるでちがった魅力《みりょく》をそれに覚えた。そして読めば読むほど、底の知れない苦悩と、限りなく清澄《せいちょう》な心境とに、同時に誘《さそ》いこまれて行くような気がするのだった。むろん「弥陀《みだ》」だの、「念仏」だの、「往生《おうじょう》」だのという言葉は、かれにはまだ、十分には理解もされず、気持ちの上でもぴったりしない言葉であった。その点からいって、かれは、おそらく、親鸞《しんらん》の他力信心《たりきしんじん》をそのまま素直《すなお》に受けいれていたとは言えなかったであろう。しかし、それにもかかわらず、その中には無条件にかれの胸にくい入る何ものかがあった。それは、親鸞の徹底《てってい》した真実性であり、つきつめた自己反省による罪悪深重《ざいあくしんちょう》の自覚であり、そしてその結果としての自力の絶対否定であった。「善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり」とか、「とても地獄《じごく》は一定《いちじょう》すみかぞかし」とか、「親鸞は弟子《でし》一人も持たずさふらふ」とか、「父母の孝養《こうよう》のためとて、念仏一返にても申したること未《いま》ださふらはず」とか、そういった一途《いちず》な言葉に接するごとに、かれはおどろきもし、むちうたれもし、また同時に救われたような気もするのだった。
 こうして、かれは「歎異抄」に親しむにつれ、これこそ人間の知性と情意との一如的《いちにょてき》燃焼《ねんしょう》であり、しかも知性をこえ、情意をこえた不可思議な心境の開拓《かいたく》を物語るものだ、というふうに考えるようになり、自分みずからその心境に近づくために、いよいよそれに親しむようになって来ていたのだった。ことにこのごろのように、内心の動揺《どうよう》がはげしくなり、自己嫌悪の気持ちが深まって来ると、その中の一句一句が実感をもって胸にせまり、もう一ときもそれが手放せなくなって来たのである。
          *
 二月二十四日は日曜だった。昨日の正午ごろからふり出した雪は、まだやんでいなかった。やむどころか、朝のラジオは、近年まれな新記録を出すかもしれないとさえ報じた。寒さもことのほかきびしかった。そのために、昨夜までは外出を計画していた塾生たちも、一人残らずそれを断念し、めずらしくみんなそろって日曜の一日を塾内ですごすことになったのである。
 次郎も、実をいうと、内々その日の外出を、計画していた一人だった。かれは「歎異抄」に親しんでいるうちに、しだいに自分のこれまでの虚偽にたえられなくなり、いっそ自分から恭一の下宿をたずね、思いきって何もかも打ちあけてしまいたい、という気になっていたのである。むろん、かれは、自分が外出することをだれにももらしてはいなかった。それをもらしたために、塾生たちに道案内をせがまれたりして、行動の自由を束縛《そくばく》されてはならないと思ったからである。しかし、いよいよその日になると、かれも結局外出を思いとまるよりしかたがなかった。むりに出ようとすれば出られないほどの深い雪には、まだなっていなかったが、塾生全部が思いとまっているのに、めったに外出したことのない自分が、しいてそんな日を選んで外出するからには、少なくとも朝倉先生夫妻だけには、十分|納得《なっとく》の行く理由を述べて断わる必要があった。しかし、その理由を正直に述べる気にはまだどうしてもなれなかったし、かといって、うそをつくのは、このごろのかれとしては、なおさら苦しいことだったのである。
 朝倉先生夫妻は、これまで、日曜には、朝の行事をおわり、朝食をすましたあとは、すぐ空林庵《くうりんあん》に引きとり、読書をしたり、書きものをしたりしてすごす習慣だったが、居残《いのこ》りの塾生の中には、よく個人的問題について相談をもちかけて行くものがあり、先生夫妻も、喜んでそれを迎《むか》えるといったふうだったので、そうした塾生が三四人もあると、それで一日が終わるというようなことも決してめずらしくはなかった。今日は、しかし、朝食のあとで、全員居残りだときくと、朝倉先生は、夫人と顔を見合わせ、
「じゃあ、私たちも居残りだ。何か話がある人は塾長室にやって来たまえ。」
 と言って、すぐ塾長室にはいり、何か書きものをはじめたのだった。
 こうして、雪は塾生たちから外出の楽しみを奪《うば》ったが、それは必ずしもかれらの気持ちを冷たくしたとばかりは言えなかった。考えようでは、何のきまった行事もない、最も自由な日を選び、塾長夫妻をはじめ、全員を一堂にとじこめることによって、みんなの心をいっそうあたためてくれたとも言えるのであった。その証拠《しょうこ》には、塾生たちは、だれがだれを誘《さそ》うともなく、いつの間にか一人のこらず広間に集まり、朝倉先生夫妻を中心に、のびのびと話しあったり、かくし芸を披露《ひろう》したり、友愛塾|音頭《おんど》を踊《おど》ったりしていたのである。
 次郎も、むろん広間に顔を出していた。そして、オルガンをひくとか、そのほか、こんな場合にかれでなくてはできないような役目は、いつもと変わりなく引きうけた。しかし、それがこの日のかれの気持ちにぴったりしていなかったことは、いうまでもない。かれは、ただ、自分の本心をだれにも見すかされないために、みんなと調子をあわせていたにすぎなかった。そして、そうした虚偽がさらに新たな苦汁《くじゅう》となってかれの胸の中を流れ、つぎからつぎに不快な気持ちをますばかりだったのである。
 虚偽をにくむ心は尊い。しかし、人間が徹底して虚偽から自由であることは、ほとんど不可能に近い。この故《ゆえ》に、虚偽をにくめばにくむほど、人間の苦しみは深まるものである。次郎にとって、この日は終日、そうした意味での苦しみをなめる日であったとも言えるであろう。かれは、実際、開塾以来の、いや、かれ自身の気持ちとしてはもの心ついて以来の、最もいやな日を、この雪の日にすごしたわけだったのである。
 翌日も雪空だった。ときどき晴れ間を見せたが、雪は解けるより積もるほうが多かった。塾生たちは戸外《こがい》の作業が全くできないために、やはりとじこめられた形だった。しかし、次郎にとっては、昨日の日曜にくらべるとはるかに楽な日だった。それは予定の行事を予定に従ってすすめて行けばよかったし、そして、それだけのことは、自分の心をいつわっているという不愉快《ふゆかい》な自覚なしにもできることだったからである。
 雪のせいか、その日の午後の郵便物は二時間もおくれて、日暮《ひぐ》れ近くに配達された。ちょうど夕食まえの休み時間で、次郎はその時、何かの用で塾長室にいたが、用をすまして出て来ると、廊下《ろうか》を急いでいた郵便物当番が声をかけた。
「本田さん、あなたにも来ていましたよ。お部屋にほうりこんでおきました。」
 次郎は胸をどきつかせながら、自分の室にかけこんだ。しかし、そこにかれが見いだしたものは、つめたい畳《たたみ》の上にぴったりとくっついている一枚の葉書にすぎなかった。しかもそれは、ひろいあげて見るまでもなく恭一の手跡《しゅせき》だったのである。文面にはこうあった。
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「重田|父子《おやこ》は、昨日曜夜の夜行で退京した。二人の在京中、一度君にも出て来てもらいたいと思っていたが、ついにその機会が見つからなかった。
君の手紙は、むろん見た。しかし、今はすべてを白紙にかえしたい。適当な機会が来るまで、僕《ぼく》はあのことについては沈黙《ちんもく》する。同時に君にも沈黙してもらいたい。ただし、これは僕ら二人の間だけのことで、他に対しての発言は自由だ。
手紙を書くと、くどくなると思ったので、わざと葉書にした。以上。」
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 重田は道江《みちえ》の姓《せい》である。次郎は、読みおわると、つめたい葉書の中にこめられた兄の情熱と意志とを感じた。また、おぼろげながら、その情熱と意志との方向をも察することができた。しかし、それはすこしもかれの心を喜ばせなかった。それどころか、かれは恭一に対して一種の敵意に似たものをさえ抱《いだ》きはじめていた。自分はさらしものにはなりたくない。そういった気持ちだったのである。
 かれは、すぐ、机のひきだしから一枚の新しい葉書をとり出して、恭一あての返事を書いた。ペン先にやけに力がこもった。
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「はがき見た。何のことやらわからぬ。沈黙はむろん結構。的なきに矢を放つようなことを君のほうでやりさえしなければ、僕ははじめから沈黙しているのだ。前便再読をのぞむ。これだけいって、いよいよ沈黙しよう。」
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 かれはつめたく微笑《びしょう》しながらペンをおいた。しかし、それと同時にかれの眼をひいたものがあった。それは机の上に開いたままになっていた「歎異抄」だった。
 かれは、しばらく、今書いたばかりの葉書と「歎異抄」とを見くらべていたが、やにわにその葉書をわしづかみにし、もみくちゃにしてにぎりしめ、そして、にぎりしめたこぶしの上に顔を突《つ》っ伏《ぷ》せた。
 こうして、この日も、次郎にとっては、決して昨日より楽な日だったとは言えなかったのである。
 翌二十六日は火曜日だった。雪は昨夜もふりつづいたらしく、赤松《あかまつ》がずっしりと重く枝《えだ》をたれており、くぬぎ林が、雪だるまをならべたようにまるまっていた。
 この数日は、門から玄関《げんかん》までの道の雪をかくことが、塾生たちの朝食後の仕事になっていたが、今日は、まだかき終わらないうちに、外来講師《がいらいこうし》の小川先生が、ゴム長をはいてやって来た。たいていの外来講師は、下赤塚《しもあかつか》駅から、塾《じゅく》で特約してあるタクシーに乗って来るのだったが、小川先生はこの村に住宅を構えているので、いつも徒歩だったのである。
 次郎は、外来講師の中のだれよりも小川先生に親しみを感じていた。先生は農学博士で、日本の村落史研究の権威《けんい》であり、友愛塾では、毎回その研究を背景にして、新しい農村協同社会の理想を説くのだったが、色の黒い、五分|刈《が》り無髯《むぜん》の、ごつごつしたその風貌《ふうぼう》は、学者というよりは、鍬《くわ》をかついでいる百姓《ひゃくしょう》の親爺《おやじ》さんといったほうが適当であり、講義の調子も、その風貌にふさわしく、訥々《とつとつ》として渋《しぶ》りがちだった。しかし、そ
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