切ってもらいたい、という意味のことを書き、朝倉先生に対しては、ごく簡単に、当分結婚のことは考えたくない、という返事を出しておいたのだ。もっとも、ぼくはこの二つの手紙を書きながら、道江自身の気持ちをおしはかってみないのではなかった。そして、もし万一にも、道江自身がぼくとの結婚を希望し、それがこの話の糸口になっているとすれば――と、そう考えると、道江がいじらしくてならないような気もしたのだ。しかし、これは、同じような立場に立たされた女性に対してだれでもが感じうる人間的感情を、ぼくがいくぶん強く感じたというまでのことで、断じて恋愛《れんあい》というべき性質のものではない。君はこの点についてもぼくを信じていいのだ。――」
 次郎は信ずるよりほかなかったし、また、信じたくもあった。しかし、それを信ずるということは、この場合、かれにとって何の慰《なぐさ》めにもなることではなかった。
(道江は恭一を愛している、それはちょうど自分が道江を愛しているように。)
 このことは、道江の今度の上京の意味を考えてみるまでもなく、かれにとっては、あまりにも明瞭《めいりょう》なことだったのである。
 恭一の手紙は、しかし、かれの気持ちに頓着《とんちゃく》なく、しだいに論理的になって行った。
「さて、君が道江に対していだいている気持ちについてのぼくの判断に誤まりがなく、そして、ぼくが道江に対していだいている気持ちについてぼく自身のいうことを君が信じてくれるとすると、残る問題で最も重要なことは、道江自身の気持ちはどうか、ということだ。君は、おそらく、それはもうわかりきったことだ、と言うだろう。今の君としては、無理もないことだ。そう思っていたればこそ、これまで一人で苦しんで来たのだろうから。……しかし、もし、ぼくの将来の結婚の相手として、道江のことが内輪話《うちわばなし》の種になっていたのを、君がたまたま耳にして、それだけで、すぐ道江の気持ちまでを決定的なもののように君が思いこんでしまったとすると、それはあまりにも軽率《けいそつ》だったと言わなければなるまい。それでは、道江が第一気の毒だし、ぼくも非常に迷惑《めいわく》する。だいたい、この話は、双方《そうほう》の老人たちの軽い茶話の間から生まれたことで、もともと道江の気持ちにもぼくの気持ちにも全くかかわりのないことだったのだ。それが多少真剣な話になって来たのは、つい半年ばかり前からのことだが、それでも、その中に道江の気持ちが反映しているとは思えない。というのは、そのことについての父さんからの最初の手紙に、若い女の心をきずつけてはならないから、お前の肚《はら》がきまらないかぎり、道江本人には絶対秘密にするように、双方で固く申合わせてある、と書いてあったからだ。おそらく現在でもこの秘密は守られていることだと思う。要するに、道江のぼくに対する気持ちということと、ぼくに婚約の話が持ちかけられたということとは、最初から全然無関係のことだし、今でもやはり無関係だとぼくは信じている。この点をまず君に了解《りょうかい》してもらいたいと思う。――」
 次郎は、ふんと鼻を鳴らし、冷笑とも苦笑ともつかぬ変な笑いを口元にうかべた。しかし、その目は、むさぼるように先を読みすすんでいた。
「もっとも、こういうことは、いくら秘密にしても、周囲の空気で何とはなしにわかることもあるし、何かのはずみで、話の片鱗《へんりん》ぐらいは耳にはいらないものでもない。だから、道江がまるでこのことに感づいていないとは断言できないだろう。そして、もし感づいているとすれば、それが、よかれあしかれ、道江の心理に相当大きな影響《えいきょう》を及《およ》ぼしているであろうことも、想像できないことではない。――」
 次郎の変な笑いは、いつのまにか、またもとの緊張《きんちょう》に変わっていた。
「しかし、現在までのところ、ぼく自身が直接道江からうけた印象だけで判断すると、その心配もなさそうだ。道江は、これまで、ただの一度も、ぼくに対して、とくべつの意味を持つと察せられるような言葉をかけたことがないし、またそんな態度に出たこともない。手紙はしばしばもらったが、それもたいてい、新刊書の選択《せんたく》の依頼《いらい》のついでに、故郷の消息をつたえるといった程度以上のものではなかった。そのうちの何通かは、ちょうど君が来あわせた時に、君にも見せたのだから、たいてい想像がつくだろう。もっとも、いつごろだったかはっきり記憶《きおく》しないが、かなり以前にもらった手紙の中に、ちょっと変わったことが書いてあったのを今でも思い出す。それは君自身に関係したことだった。女学校時代に、いつも君に低能あつかいにされていたので、今度君にあうときには、すこしは君の話相手になるように勉強しておきたい、といったような意味だったと思う。今だからいうが、ぼくは、実は、それを読んだとき、道江は君を愛しているのではないかと、ちょっと疑ってみたくなったくらいなのだ。――といっても、それが原因で、ぼくが道江との婚約を断わったわけでは、むろんない。――なお、これも手紙に関連したことだから、ついでに言っておくが、道江は、君が上京以来一度もたよりをしなかったことを、なぜぼくのほうにうったえて来なかったのか、今になって思うと、それもぼくにはふしぎでならないのだ。ひかえ目な女性というものは、自分が心の中でひそかに愛している人の消息を、他の人にはたずねたがらないものだが、道江もあるいはそうではなかったのか、などとぼくが疑ったとしても、必ずしも無茶ではないと思うが、どうか。――」
 次郎は、それが恭一の自分に対する気やすめ以上のものではないと思いながらも、ふしぎに怒りを感じなかった。
「書くことが少し先走りしすぎたが、要するに、道江とぼくとの間柄《あいだがら》は、どちらのがわからいっても、親類ないし友だち以上のものではない。少なくとも、ぼく自身に関するかぎり、このことは誓っていえることだし、また道江のがわから言っても、おそらくぼくの判断に誤まりはないだろうと思う。そこでつぎの問題は、何といっても道江の君に対して抱《いだ》いている気持ちいかんだが、これについては、今言ったようなきわめて薄弱《はくじゃく》な判断の材料があるだけで、ぼくには決定的なことは何も言えない。これは、むしろ、君自身で判断するほうが一番たしかではないかと思うのだ。――」
 次郎は急に突《つ》っぱなされたような気がしながらも、やはり眼だけはつぎの文字を追っていた。
「こう言うと、君の今の心境では、ただ失望だけを感ずるかもしれない。もし道江の気持ちについての君の判断が、これまで通りで少しも変わらないとすると、それは無理のないことだし、またしかたのないことだ。しかし、君のその失望は、君にとって、まだ決して最後のものではない。いや、最後のものであらせてはならないのだ。橋のないところには橋をかけて進むという方法もあるのだから。……ぼくの考えるところでは、君の現在の悲観的判断がかりに当たっているとしても、道江が君以外のだれかを愛しているということがたしかでないかぎり、断念するにはまだ早い。というのは、道江が少なくとも君に対して友情を感じていることだけはたしかだからだ。しかもその友情は、ぼくの見るところでは、通り一ぺんの友情ではない。見ようでは、それは自然の成り行きに任せておいても、友情以上のものに、育っていきそうに思えるほどの友情なのだ。だから、もし君が欲するならば、いや許すならば、ぼくはその友情を一刻も早く友情以上のものに育てるために積極的に何らかの手段に出たいと思っているのだ。むろんその手段に少しでも無理があってならないことは、ぼくもよく心得ている。その点についてはぼくを信じてもらってもいい。ぼくは、決してそのために君ら二人の友情までも傷つけるようなことはしないつもりだ。しかし、何といっても、まずたいせつなのは、君の真意だ。最初に言ったとおり、すべては君の道江に対する気持ちについてのぼくの判断が誤まっていないということを前提とするのだから、それが誤まっておれば、手段も何もあったものではない。で、どうか、君の真意を率直《そっちょく》にきかせてくれ。返事は、イエスかノーかでたくさんだ。くれぐれも言っておくが、心にもない返事は、この場合ぜひやらないでくれ。こうした問題は、あまり考えていると、つい答えがあいまいになったり、心にもないことを言いたくなったりするものだ。ほかの場合はとにかくとして、今度の場合だけは、君が子供のように単純率直であることをぼくは心から祈《いの》っている。」
 読み終わった次郎の顔は、いくぶんほてっていた。うれしいような、恥《は》ずかしいような、それでいて憤慨《ふんがい》したいような、変にこんがらかった感情が、かれの胸の中に渦を巻いていたのである。
 かれは赤松の幹によりかかって、手紙をもう一度はじめから読みかえした。それは最初の時よりはるかに時間をかけた、念入りな読みかただった。そして読みおわると、それをかくしにつっこみ、腕組《うでぐ》みをして、しばらくじっと考えこんでいたが、急に何か決心したらしく、大いそぎで自分の居室《きょしつ》に帰って行った。居室に帰ると、すぐ机の上に便箋《びんせん》をひろげた。そして、もう一度考えこんだあと、ペンを走らせた。
「手紙見た。感謝する。しかし、道江の気持ちは、ぼくにはわかりすぎるほどわかっているのだ。君がとろうとする方法は、ただ道江を悲しませるばかりだろう。それは同時に、ぼくにとっても、たえがたい苦痛なのだ。ぼくは、君がぼくに対して注ぐ愛情を道江に対して注ぐことを心から希望する。それは同時に、ぼくに対する大きな愛情でもあるのだ。」
 かれはそれを封筒《ふうとう》に入れて封をした。が、上書《うわが》きを書こうとして、何かにはっと気がついたように、ペンをにぎったまま、その封筒を見つめた。
 しばらく考えたあと、かれはその封筒を、手紙ごとめりめりと裂《さ》き、もみくちゃにし、さらにすたずたに裂いて屑籠《くずかご》に投げこんだ。
 それからまた、便箋を前にして、じっとどこかを見つめていたが、やがてかれの頬《ほお》には冷たい微笑が影《かげ》のように流れた。そして一気に記されたのはつぎのような文句であった。
「君の手紙を見て、ぼくは失笑《しっしょう》を禁じ得なかった。とんでもない誤解だ。しかも君は、ぼくに対する判断を誤まっているばかりでなく、道江に対する判断をも誤まっている。ぼくの場合は、笑ってもすませるが、道江の場合は、そうはいくまい。道江にとっては、それはおそらく致命的《ちめいてき》な打撃《だげき》を意味するだろう。おそろしいことだ。ぼくは、道江の一生の幸福のために、婚約|拒絶《きょぜつ》について、君の再考を祈ってやまない。それは同時に君自身の幸福のためでもある、とぼくは信ずるのだ。――なお、これはついでだが、こないだちょっと話したこと(ぼくが塾の助手をやめる問題)は、もっとぼく自身でよく考えてみたい。君や大沢《おおさわ》さんに相談する必要があったら、あらためて通知するから、それまでは気にかけないでおいてくれ。このことを道江の問題などと結びつけて考えてもらうのは、むしろ滑稽《こっけい》だ。」
 かれは封筒を書きおわると、今度はすぐ切手をはって、事務室に備えつけてある発信ばこに投げこんだ。――午後二時半になると、郵便物当番の塾生が、その中のものをひとまとめにして、近くの郵便局にもって行くことになっているのである。
 間もなく板木《ばんぎ》が鳴った。午後は屋外作業で、くぬぎ林の枝《えだ》をおろして薪《まき》を作る予定になっていたのである。塾生たちは、いったん玄関《げんかん》前に集まり、班別にわかれてすぐ作業にとりかかった。
 入塾後、すでに二週間近くになっていたので、作業は割合順序よく運ばれた。木にのぼって枝をおろすもの、おろされた枝を一定の場所に集めるもの、集められた枝を適当な長さに切るもの、切られた枝を縄《なわ》
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