えるのだった。
かれは、ふと、何と思ったか、このごろしばらく手にしなかった「歎異抄《たんにしょう》」を本立からひき出して机の上にひらいた。しかし、かれの眼は、その中にしるされた文字に深くはいっていくようではなかった。かれは何度か髪《かみ》の毛をむしり、ため息をついたあと、ばたりと「歎異抄」をとじ、その上に顔をふせてしまったのである。
八 手紙
それから四日目の、昼食後の休み時間のことであった。次郎が、葉の落ちつくしたくぬぎ林の、日あたりのいい草っ原で、四五人の塾生《じゅくせい》たちを相手に雑談をしていると、郵便物当番の塾生がやって来て、かれに一通の分厚な封書《ふうしょ》を渡《わた》した。見ると恭一《きょういち》からの手紙である。
同じ東京に住むようになってからは、しばしば顔を合わす機会も得られたので、これまで、恭一との間の通信は、おたがいに葉書ぐらいですませており、長い手紙など、一度もやりとりしたことがなかったし、それに、先日|道江《みちえ》といっしょにたずねて来てもらった時のいきさつもあったので、次郎はその分厚な封書を受け取ると、心にかなりの動揺《どうよう》を感じ、もう落ちついて雑談などしておれなくなった。かれは、しかし、しいて平気をよそおいながら、無造作《むぞうさ》に手紙をかくしに突《つ》っこんだ。それから、立ちあがって背のびをしたり、両腕《りょううで》をふりまわしたりしたあと、一人でぶらぶらと赤松《あかまつ》の林のほうに歩きだした。そして、林をすこしはいって、人目のとどかないところまで来ると、いそいで手紙の封をきり、むさぼるように読み出した。
「……直接会って話すほうが誤解がなくていいと思ったが、しかし、話しているうちに、おたがいの感情がもつれあって、かえって誤解を招くような結果になりはしないか、というふうにも考えられたので、やはり手紙を書くことにした。ぼくは手紙を書くことによって、だれにもさまたげられないで、ぼくの考えていることを、その正否は別として、いちおうピンからキリまで君につたえることができると思うのだ。もっともこの手紙を書くことになった動機は、現在の君の心境についての、ぼくの一方的な判断――むしろ想像といったほうが適当かもしれないが――にあるのだから、その判断がてんで見当ちがいだとすれば、この手紙は全然、無意味だということになるだろう。いや、無意味だけですめばまだいいが、あるいは君の怒《いか》りを買うようなことになるかもしれない。しかし、ぼくとしては、結果がどうであろうと、ともかくもいちおうこの手紙を書かないではおれないような今の気持ちなのだ。会って話をすれば、事情がはっきりして、一方的な判断で、無意味な、あるいは危険な手紙を書いたりする必要がないではないか、と君は言うかもしれない。それはその通りだ。ぼく自身、一応も二応もそう考えてみないではなかった。しかし率直《そっちょく》に言うと、ぼくは実は、会って話をすると、君が君の本心をいつわって、ぼくの君にたいする判断を、頭から否定してかかるのではないか、と心配したのだ。もしそういうことになれば、ぼくは二の句がつげなくなる。むろん君の否定が真実であれば、ぼくが二の句がつげないのは当然なことで、ぼくはただ君に対して陳謝《ちんしゃ》するほかはない。しかし、万一にも、ぼくの心配があたっているとすると、ぼくが二の句がつげないということは、あるいはぼくたち二人にとって一生の不幸を意味することになるかもしれないのだ。真実を語ればかえって物ごとの解決が困難になるという場合、それを語らないのは、むろんいいことにちがいない。しかし、真実がわかりさえすれば、わけなく解決の道が発見されそうに思えるのに、それをかくしておいて、一生の不幸を見るということは、何というばかげたことだろう。ぼくはそういう気持ちで、一方では君の怒りを招くという危険をおかしながらも、思いきってこの手紙を書くことにしたのだ。つまり、ぼくは君にはひとまず物を言わせないで、言いかえると、君の本心をいつわる機会を君に与《あた》えないで、ぼくの言いたいことだけを言ってしまう方法として、この手紙を書くことにしたのだ。だから、そのつもりで、ともかくもいちおう最後まで眼《め》をとおしてもらいたい。」
次郎には、そうした前置きがもどかしくもあり、気味わるくも感じられた。恭一がふれようとする問題が、道江のことにちがいないという気もしたし、また一方では、まさかという気もしたのである。まさかという気がしたのは、自分が道江に対して抱《いだ》いている気持ちを恭一が知っていようはすがない、と思っていたからである。
しかし、恭一の手続は、そのつぎの行では、残酷《ざんこく》なほどあからさまだった。
「君は道江を愛している。これが、ぼくの君に対する判断だ。ぼくはまずそのことをはっきり言っておきたい。」
いきなりそんな文句があった。その文句を見た瞬間《しゅんかん》、次郎は、眼のまえに炎《ほのお》が渦巻《うずま》くような気がして、しばらくはつぎの文字を見ることができなかった。
「この判断には、しかし、たしかな根拠《こんきょ》はない。ただ、先日君をたずねたあとで、直観的にそう判断したまでのことだ。しかし、ぼくだけでは、この直観にあやまりはないという気がしている。むろん、ぼくは、あの日最初から君をそう思って観察していたわけではない。じつは、君に塾内を案内してもらっていた間に、君の道江に対する態度のあまりにもよそよそしいのに気がつき、なぜだろうと思ったのがはじまりで、そのあと、ぼくはかなり注意ぶかく君の一挙一動を見まもっていたのだ。すると、君にはまるで落ちつきがなかった。君は何の原因もないのに、いつもおどおどしていた。かと思うと一人で何かに腹をたてているようにも思えた。君はただの一度も君のほうから道江に言葉をかけなかったばかりか、まともに道江の顔を見ることさえしなかった。ぼくたち兄弟のなかでだれよりも道江に親しかったはずの君が、何年ぶりかで会ったというのに、あんな態度に出るからには、何かよほど重大な理由がなければならない。ぼくは、あの時、そう思わないわけには行かなかったのだ。しかし、あの日君とわかれるまで、その理由が、何であるかには思いあたらなかった。ただぼんやり、道江が何かひどく君を怒らせるようなことをしたにちがいない、と考えていたのだ。もっとも、別れぎわになって、君が急に友愛塾をやめたいというようなことを言いだしたときには、理由はそんな単純なことではない、という気がしないでもなかった。しかし、それも、君のそうした考えが以前からのものではなく、その日の急なでき心だと知ると、やはり道江と結びつけて考えてみないではいられなかったのだ。――」
「で、ぼくは帰る途中《とちゅう》、道江にそれとなく、君との間に何かいきさつがありはしなかったか、とたずねて見た。そして、あの時の道江の答えによって、ぼくは非常におどろかされたのだ。道江の言うところでは、君は、上京以来、郷里のいろんな人たちに、かなり多くの通信をしているにかかわらず、道江に対してだけは、葉書一枚も書いていないし、道江のほうから通信をしても、受け取ったという返事さえ出していないというではないか。もし事実その通りだとすると、これほど変なことはない。というのは、ぼくの知っているかぎりでは、君は上京のその日まで道江とは十分親しくしていたし、まさか君が汽車に乗って東京につくまでの間に、仲違《なかたが》いをするような原因が発生するとは思えないからだ。そこで、ぼくは、君の道江にたいするこの変な仕打ちの意味を真剣《しんけん》に考えてみた。その結果、ぼくの下《くだ》した判断はこうだ。君は道江を深く愛している。しかし、それはある事情によって実を結ばない。だから君は永久に道江とわかれる決心をした、そしてその機会を上京に求めたのだと。ぼくは、実は今になって思うのだが、君が卒業間近になって中学を退学しなければならなくなったのを、あんがい平気でしのび得たのは、それが道江からのがれる一つの機会を君に与えることになったからではあるまいか――」
次郎の心は、一瞬、強く反発《はんぱつ》した。かれにとっては、退学の問題と道江の問題とは何の関係もないことで、正義感によって動いた自分の行動を、一女性に対する私の感情と結びつけて考えられるのは全く心外だったのである。しかし、道江にわかれた時のかれの気持ちが、未練以外の何ものでもなかったことに気がつくと、むしろ、恭一に自分が高く評価されたような気もして、その反発はすぐ羞恥《しゅうち》と自嘲《じちょう》に代わった。
「むろん、ぼくは、君が喜んで道江と別れたとは思わない。君にとっては、それはおそらく退学などとは比べものにならないほどの大きな苦痛であったろうと想像する。それにもかかわらず、君はそれをしのんで道江とわかれる決心をした。そして、その原因になった事情が、おそらくぼく自身に関係したことであるだろうことに思い到《いた》ると、ぼくはいても立ってもいられないような気がして来たのだ。今さら何をいうのか、と君はあるいは怒るかもしれない。しかし、もしあの当時、君の道江にたいする気持ちに、ぼくが、少しでも気がついていたとしたら、君にこんな苦痛をなめさせないでもすんだにちがいない。そう思うと、ぼくは実際たまらなくなるのだ。ぼくは誓《ちか》っていうが、あの当時、道江にとくべつな関心をもっていたわけではなかった。ぼくの道江に対する気持ちは、親類のおとなしい女の子という以上には出ていなかったのだ。また、婚約《こんやく》のことにしたところで、まだ何も正面切っての話があっていたわけではなかった。なるほど、父《とう》さんからは、たった一度だけ、それもごくぼんやりと、ぼくの気持ちをきかれたことがあるにはあった。しかし、その時も、ぼくは、結婚《けっこん》はまだずいぶん先のことだし、ゆっくり考えておきましょうぐらいな、いいかげんな返事をしたにすぎなかったのだ。むろん、ぼくは、はっきり道江をきらいだとは言わなかった。しかし、それは、あんなやさしい子をそんなふうに言う気がしなかったからで、決して異性として、将来の結婚の相手として、いくらかでも心をひかれていたからではなかった。要するに、ぼくは、親類のやさしい女の子として、道江を十分愛しもし、尊敬もしていたが、道江がだれと結婚しようと、その相手がいい人でさえあれば、それは、その当時、ぼくにとってはどうでもいいことだったのだ。では、今はどうか。これがおそらく君にとっても、ぼくにとっても最も大事な問題だと思うが、それについても、ぼくははっきり言うことができる――」
次郎は思わず息をのんだ。
「道江は、今でも、ぼくにとっては、親類の愛すべき女の子以上の存在ではない。ただその当時と、いくぶんちがっている点があるとすると、それは、彼女《かのじょ》がこの数年の間に読書によってその当時よりはるかに尊敬すべき女性に成長しているということだ。――」
次郎は、のんだ息を大きく吐《は》いた。そのあと、深い呼吸がしばらくとまらなかった。
「こう言うと、君は、今度はぼくのほうが本心をいつわっていると思うかもしれない。しかし、その疑いを解くのはさほど困難ではない。そのたしかな証拠は、もし君がちょっと骨折ってそれをさがす気にさえなれば、すくなくとも二つは見つかるはすだ、その一つは、先月はじめ、ぼくが父さんに出した手紙であり、もう一つは、それから少しおくれて朝倉先生に出した手紙だ。どちらも、道江との婚約問題についてぼくの考えをたずねられたのに対する返事だが、父さんあての返事には、婚約は、相手のいかんにかかわらず、自分が社会的に独立する目あてがはっきりするまでは絶対にやりたくない。もし道江がそれまで自由な立場にあれば、その時になって、あらためて考えてみることにしたい。しかし、そういうことを先方に通じて、それが少しでも道江を拘束《こうそく》することになっては困るから、いちおうこの話は、打ち
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