先生にあてた手紙に道江のことを書いたとすれば、それは恭一との婚約《こんやく》に関係したことにちがいない。それ以外のことで、道江のことなんか書く必要はすこしもないはずなのだから、と思った。
「うちで、白鳥会の連中が先生の送別会をやった時には、道江さんもいたんじゃなかったかな。」
恭一が道江にたずねた。
「あの日は、あたし、お台所でお手伝いをしていましたの。」
「お給仕には出なかった?」
「ええ、おばさんに出るように言われたんですけれど、あたし、とうとうしりごみしちゃって。……でも、あの時は、男の学生ばかり、三十人もならんでいらしったんですもの。」
「すると、先生がたのお顔も今日がはじめてなんだな。」
「そりゃあ、お顔だけは存じていましたわ。あのとき拝見したんですもの。」
「のぞき見したの? どこから?」
「はしご段のところからですわ。ほほほ。」
みんなが笑った。次郎も笑ったが、苦しそうだった。何でもない会話ではあったが、そうした対話が、自分を中にはさんで、二人の間にすらすらと取りかわされるのをきいていると、次郎は平気ではいられなかったのである。
そのあと、話は、そのころの思い出で、つぎからつぎに花が咲《さ》いた。共通の話題は、いつまでたってもつきなかった。次郎をのぞいては、だれもが雄弁《ゆうべん》だった。そして、次郎がとかくだまりこみがちになっても、それは全体の話の流れには何のさまたげにもならないかのようであった。
道江の言葉づかいは、以前に変わらず素直《すなお》で、すこしも才走《さいばし》ったところがなかった。それが、かつては、次郎に道江を平凡《へいぼん》な女だと思わせた一つの理由だったが、今はまるでちがった感じだった。素直さが、そのまま知性的に高められて、この上もない美しい品格を作っているように思われたのである。かれは、その感じが深まるにつれ、恭一が上京以来しばしば、かの女のためにいろいろの本を選択《せんたく》して送ってやっていたことを思い出し、これまでに覚えたことのない、異様なねたましさを覚えたのだった。
朝倉夫人は、話の途中《とちゅう》で、みんなの昼飯の用意をするために、本館の炊事場のほうに行ったが、行きがけに次郎に言った。
「これからどんなお話がでるか、よく覚えていてくださいよ。あとできかしていただきますから。」
次郎には、夫人のそんな言葉までが、何かとくべつの意味があるような気がして、平気では受け答えができないのだった。
そのあと、話は主として朝倉先生と恭一との間にとりかわされた。道江は、女の話相手を失って、口を出す機会が自然に少なくなったのである。次郎は、そうなると、いよいよ気がつまり、舌がこわばった。
道江は、朝倉先生と恭一とが話している間に、たびたび次郎の顔を見て、何か話しかけたいような様子を見せた。次郎は、むろん、それに気がついていた。かれは、しかし、あくまでも眼を先生と恭一とのほうにそそぎ、熱心に二人の話に聞き入っているかのように装《よそお》った。
「ねえ、次郎さん――」
と、道江が、とうとう身をすりよせるようにして、小声でいった。
「お手紙、どうして一度もくださらなかったの?」
次郎はちらっと道江の顔を見たが、その眼はまたすぐ恭一のほうにそそがれていた。そして、かなり間をおいて、
「べつに用がなかったからさ。」
と、ほかの人にきこえるのをはばかるような、ひくい声でこたえ、頬を紅潮《こうちょう》させた。
まもなく朝倉夫人が玄関口までもどつて来て、言った。
「おひるは本館のほうに用意しておきますわ。あと三十分ほどでしたくができますけれど、それまでに、お二人に館内をご覧いただいたら、どうかしら。恭一さんも、まだ本館のほうはよくご存じないんでしょう。次郎さん、すぐご案内してくださいよ。」
次郎はふすまを半分あけて夫人にこたえたが、むろん気はすすんでいなかった。かれは夫人の足音が消えると、恭一を見て、
「本館を見る? もうたいてい知っているだろう。」
「くわしくは知らないよ。いつも、塾生たちのじゃまをしてはいけないと思って、先生の室と、君の室よりほかには、はいったことがないんだ。」
「そうだったかな。」
次郎は、そう言いながら、やはりぐずついていた。すると、朝倉先生が、
「恭一君はいつでも案内できるが、道江さんはそうはいかない。ぜひ見ておいてもらいたいね。案内するなら、早いほうがいいよ。午後になると、塾生たちが帰って来るかもしれないからね。」
次郎は、それで、しかたなしに立ちあがり、二人を本館に案内した。案内したといっても、大して説明することもなかった。かれが口をきかないと、道江のほうから、何かと話しかけた。それがかれには気づまりだったが、まるで相手にならないわけにもいかなかった。
「次郎さんは、すっかり以前とはお変わりになったようね。」
「そうかな。」
「ご自分では、お変わりになったこと、お気づきにならない?」
「そりゃあ、中学時代とは、ちっとは変わっているだろうさ。もうそろそろ四年近くになるんだもの。」
「ちっとどころじゃないわ。」
「そうかな。」
次郎は、うわの空らしくよそおって、そっぽを向いたが、つぎの瞬間には、ぬすむように恭一の顔をうかがっていた。
「あたし、今日は何だか次郎さんがこわいような気がしますわ。」
「こわい? どうして?」
「だって、おそろしく、かまえていらっしゃるでしょう? あたしなんか、まるで相手にならないっていうふうに。」
「そんな……」
と言いかけたが、次郎の舌は、それっきり動かなかった。
「あたし、さっきから考えていますの。塾生活なんかなさると、自然そんなふうにおなりなのじゃないかしらって。」
道江はひやかしているのか、腹をたてているのかわからないような調子で言った。それが、次郎の胸にはひどくこたえた。かれはそのあと、ろくに塾の説明もできなくなったのだった。
しかし、よりいっそう大きな打撃《だげき》をかれにあたえたのは、一通り案内を終わって、最後にかれの居室《きょしつ》をのぞいたとき、それまでほとんど口をきかないでいた恭一が、まじまじとかれの顔を見つめながら言ったことだった。
「今日は、君、たしかにどうかしてるね。ぼくの眼にも、いつもと非常に違《ちが》っているように見えるよ。何か苦しんでいることがあるんじゃない? もしそうだったら、打ちあけて朝倉先生に相談するがいいじゃないか。むろん、ぼくでよかったら、いくらでも相談にのるがね。」
次郎は、恥《は》ずかしさと腹だたしさとで、顔中が引きつるような気持ちだった。
「何でもないよ。」
と、かれはおこったようにいって、すぐ二人を、食卓《しょくたく》の準備されている広間に案内した。
食卓は、日ざしのいい窓ぎわに据《す》えられており、朝倉先生夫妻のほかに、大河無門がもう卓について、三人がはいって来るのを待っていた。
「大河さんがおひとりで居残《いのこ》っていらしって、お風呂に水をいれていただいていたものですから、ごいっしょにお食事をしていただくことにしましたの。」
夫人は、次郎にそう言ってから、恭一と道江を大河にひきあわした。そのあとで、朝倉先生は微笑《びしょう》しながら、恭一に言った。
「大河君は、普通《ふつう》の塾生とはちがって京大を出た人だよ。専門は哲学《てつがく》だ。しかし概念《がいねん》の哲学者じゃない。孔子《こうし》とかソクラテスとかいった型の、いわゆる哲人だね。今日は居残っていてもらってちょうどよかった。大いに教えてもらうんだな。」
ごちそうはさつま汁《じる》だった。あたたかい日ざしの中でそれをすすっていると、汗《あせ》をかきそうだった。食後の蜜柑《みかん》が、舌にひやりとして甘《あま》かった。
朝倉夫人が食卓のあとかたづけをはじめると、道江がそれを手伝った。そのあとは、またいっしょになって話がはすんだ。話題は、ひる前の空林庵での懐旧談《かいきゅうだん》とはちがって、人生論めいたことを中心に、民族とか、国家とか、階級とかいうことにまで及《およ》んだ。おもに口をきいたのは、先生と恭一と大河の三人だった。中でも大河が主役の観《かん》があった。それは、朝倉先生も、恭一も、大河を相手に話しかけがちだったからである。
次郎はほとんど聞き役だったが、かれの関心の中心もやはり大河だった。かれはまず第一に、大河の頭が論理的にもすばらしく緻密《ちみつ》であるのにおどろいた。しかし、いっそうおどろいたのは、その緻密な論理の中から、間歇的《かんけつてき》に、気味わるいほどの激《はげ》しい情熱と強い意力とがほとばしり出ることだった。大河は、いつも半ば顔を伏《ふ》せ、眼をつぶるようにして、ぼそぼそと、落ち葉をふむ足音のような声で話すくせだったが、何か大事だと思う話の焦点《しょうてん》にふれだすと、その眼は、やにわにぎらぎらと光って相手をまともに見つめ、その厚い真赤な唇からは、青竹をわるような澄《す》んだ調子の高い声が、つづけざまに爆発《ばくはつ》するのだった。
次郎が、その日|感銘《かんめい》をうけた大河の言葉は、一つや二つではなかったが、とりわけ心に深くしみたのは、つぎの言葉だった。
「先生は、さっき、ぼくを、孔子やソクラテス型の哲人だなんて持ち上げてくだすったんですが、ぼくは、実は、そんなふうに言われると、悲観するんです。悲観するというのは、そんな偉《えら》い人たちと、ぼくとの間に距離《きょり》がありすぎるからばかりではありません。そういう事とは別に、ぼくにはぼくの考えがあるからなんです。生意気なことを言うようですが、孔子やソクラテスは凡俗《ぼんぞく》の上に立って凡俗を教えた人たちではありましたが、凡俗といっしょに暮《く》らした人たちではなかったと思います。その意味で、ぼくの今の気持ちには、何かぴったりしないところがあるんです。ぼくは、今のところ、教える人になりたいとは、ちっとも考えていません。自分も凡俗の一人として、凡俗といっしょに暮らしてみたい。おたがいに凡俗のまごころをつくして暮らしてみたい。ただそう思うだけなんです。これは、あるいはまちがっているかもしれません。しかし、現在のぼくは、それよりほかに、気持ちよく生きて行く道がないような気がしているんです。」
この言葉には、次郎だけでなく、みんなも強い刺激《しげき》をうけたらしかった。ことに、朝倉先生は、その言葉をきくと、何かにおどろいたように目を見張り、しばらくして、うむ、うむ、と何度もうなずいたり、ながいため息をもらしたりしたほどであった。
恭一と道江とが帰ったのは、四時近いころだった。次郎は門のそとまで二人を見おくって出たが、わかれぎわになって、ふと思い出したように恭一に言った。
「ぼく、今度の期間を終わったら、ひょっとすると、ここの助手をやめるかもしれないよ。」
「え?」
と、恭一は、しばらく穴のあくほど次郎の顔を見つめていたが、
「何か失敗した?」
「失敗なんていうことはないけれど、ぼく、もっと考えてみたいことがあるんだ。」
「塾がいやになったんじゃないだろうね。」
「そんなことないさ。そんなこと――」
と、次郎はいかにも心外だというように、口をとがらしたが、
「要するに、ぼく、今のままじゃあ、不適任だという気がするんだ。」
「どうして?」
「どうしてって――」
と、次郎は目をふせたが、その視線の中には、白い足袋《たび》をはいた道江の足がはっきり浮《う》かんでいた。かれは、あわてたようにそれから眼をそらし、
「ぼく弱すぎるんだ。自信がなくなったんだ。だから、もっと自分を鍛《きた》えてみたいんだ。」
「自分を鍛えるのに、助手をやめる必要はないだろう。やめたら、かえって――」
「ぼく、孤独《こどく》になってみたいんだよ。」
「孤独に?」
「ぼく、実は、大河君がうらやましくなったんだ。大河君には、ぼくとちがって、朝倉先生のような、先生らしい先生がなかったらしい。大河君の力は孤独から生まれた力なんだ。ぼくはこれまで、あ
前へ
次へ
全44ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング