いういい気な、甘《あま》っちょろい兄だろう、と軽蔑《けいべつ》してやりたい気にさえなる。
 もっとも道江にたいして自分の抱《いだ》いている気持ちに、兄がまだまるで気がついていないらしいのは、ありがたいことだ。しかし、だからといって、二人がむつまじくつれだってやって来るのまでを、ありがたく思うわけにはいかない。痛いきずは、どんなに用心ぶかくさわられても痛いのに、まして、そのきずに気がつかないで、無遠慮《ぶえんりょ》にさわられては全くたまったものではないのだ。
 しかし、兄はおそらく道江をつれて来る。いや、かならずつれて来る。そして、無意識な残酷《ざんこく》さで自分の痛いきずにさわろうとしているのだ。二人はあらゆる好意にみちた言葉を自分になげかけるだろう。二人のむつまじさを三人にひろげることによって、二人は一そう深いよろこびを味わおうとつとめるだろう。二人はいろいろと過去の思い出を語るにちがいないが、その思い出の愉快さも不愉快さも、三人に共通するものとして語られるにちがいない。自分は、二人のそうした無意識な残酷さにたいして、いったいどういう態度をとればいいのか。いや、どういう態度をとりうるというのか。
 かれには、まったく自信がなかった。白鳥会時代の心の修練も、友愛塾の助手としての現在の信念も、こうした場合の態度を決定するには、何のたしにもならなかった。かれがこれまで信奉《しんぽう》もし、実践《じっせん》にもつとめて来た、友愛・正義・自主・自律・創造、といったような、社会生活の基本的|徳目《とくもく》は、今のかれには、全く力のない、空疎《くうそ》な言葉の羅列《られつ》でしかなかった。そしてそこに気がつくと、かれはいよいようろたえた。
 道江という一女性が、間もなく、自分の目のまえに現われるという小さなできことの予想、――大きな人間社会の運行《うんこう》の中では、まったくどうでもいいような、そうした小さなできごとの予想《よそう》が、どうしてこれほどまでに自分をまごつかせ、自分の不断の心の修練を無力にするのか。どうして、現在友愛塾におおいかぶさっている深刻な問題以上に、自分の心をなやますのか。女性とは、恋愛《れんあい》とは、いったい何だろう。それは、これまで自分が考えて来た人間生活の秩序とは、全く次元のちがった秩序に属するものだろうか。
 そんなはずはない!
 かれは心の中で強く否定した。しかし、否定した心そのものが、やはり、ふだんの秩序を失った心でしかなかったのである。
 事務室の柱時計《はしらどけい》がゆっくり、十時をうった。次郎はかぞえるともなくその音をかぞえていたが、かぞえおわると、やにわに立ちあがった。
 二人が午前中に来るとすれば、もうそろそろ来るころだ。めいった顔は見せたくない。いっそ門のそとまで出て愉快に自分のほうから迎《むか》えてやろう。あとはあたって砕《くだ》けるまでのことだ。――かれは冒険《ぼうけん》とも自棄《じき》ともつかない気持ちで、自分自身をはげましたのだった。
 すると、ちょうどその時、事務室に人の足音がして、仕切りの引き戸を軽くノックする音がきこえた。
「どなた?」
 次郎が、いぶかりながら戸をあけると、そこには大河無門が立っていた。
「おや、外出しなかったんですか。」
 次郎は大河の顔を見ると、救われたような、こわいような、変な気になりながら、つとめて平静をよそおってたずねた。
「ええ、べつに出る用もなかったので……」
「でも、道案内によく引っぱり出されなかったことですね。」
「やんやと頼《たの》まれましたが、断わることにしました。」
「うらまれやしませんか。」
「ふ、ふ、ふ。」
 大河はとぼけたような顔をして、笑った。
「どの方面の希望者が多かったんです。」
「たいていは二重橋を見て、それから銀座に行きたがっていたようでした。」
「相変わらずですね。」
「いつもそうなんですか。」
「ええ、最初の日曜は、きまってそんなふうです。」
「二重橋のつぎが、銀座というのは、しかし、おもしろいじゃありませんか。」
「ええ、ちょっと皮肉ですね。しかし、今の日本の青年としては、おそらくそれが正直なところでしょう。」
 二人はいつの間にか、火鉢《ひばち》を中にしてすわりこんでいた。大河はまじめな顔をして、
「それは、しかし、青年ばかりではないでしょう。本職の軍人だって、正直なところは、たいていそんなものですよ。銀座みたいなところの魅力《みりょく》は、超時代的《ちょうじだいてき》というか、本能的というか、とにかく人間の本質にこびりついたものでしょうから、非常時局のかけ声ぐらいでは、どうにもならないでしょう。」
「そんなことを考えると、時代の力なんていっても、たいしたものではありませんね。」
「ええ、本質的なものに対しては、結局無力かもしれません。せいぜいできることは、お体裁《ていさい》を作るために形をかえでそれを満足させることでしょう。しかし、だからといって、時代の力は軽蔑《けいべつ》はできませんよ。うそを本気でやらせる力もあるんですから。」
「うそを本気で?……それはどういうことです。」
「早い話が、今の時代がそうじゃないですかね。このごろ時局だ時局だと叫《さけ》んでいる人たちはむろんのこと、それにおどらされている人たちも、自分では本気のつもりなんですよ。本気でなくちゃあ、あんな気ちがいじみたまねはまさかできないでしょう。ところで、その本気が、冷静に物事を考え、自分の心をどん底までたたいて見た上での本気かというと、決してそうではありません。たいていは時局のかけ声に刺激《しげき》されて、自分でも気づかないうちに、本心にないことを本気で言ったり、したりしているだけなんです。そうは思いませんか。」
「なるほど、そう言われるとそうですね。ここの塾生たちの中にも、入塾当初には、そんなのがざらにいますよ。」
「その意味で、銀座に行くのは、正直でいいじゃありませんか。少なくとも、うそを本気でやるよりはいいことでしょう。」
「かといって、正直だとほめてやるほどのこともなさそうですね。」
 二人は声をたてて笑った。次郎は、しかし、笑いながら、道江のことでなやんでいる自分が何かあわれなもののように感じられて、いやにさびしかった。
 かれはふと、思い出したように、
「何か用事じゃなかったんですか。」
「ええ、今日はみんなが帰るまでに、風呂《ふろ》をわかしておきたいと思ったもんですから。」
「風呂? 今日は、やすむことになっていたんじゃありませんか。」
 最初の日曜に、風呂当番だけが外出できなくなっては気の毒だというので、みんなの相談でそうきめていたのである。
「ええ、しかし、わかしておいてもいいんでしょう?」
「そりゃあ、むろん、いいどころじゃありませんよ。わかしてくれる人がありさえすれば……」
「じゃあ、ぼく、やっぱりわかしておいてやりましょう。……わくのに何時間ぐらいかかりますかね。ぼく、まだ、ここの風呂のぐあいがわかっていないんですが。」
「時間はまだゆっくりでいいんでしょう。しかし、いったい、どういうわけなんです。風呂なんか……」
「べつにわけなんかありません。ただ、ひまなので、風呂でもわかしておいてやろうかと思っただけなんです。みんなは、今日はほこりをかぶって来るでしょうし、それに、今夜はお国|自慢《じまん》の会をやって遊ぶ予定でしょう。風呂でもあびて、さっぱりしたほうがいいんじゃありませんか。」
 大河無門は、そう言ってにっと笑ったが、すぐ、
「おじゃましました。」
 と、ぴょこりと頭をさげた。そしてのっそり立ちあがると、そのまま室を出て行ってしまった。
 次郎は、ぽかんとして、そのすんぐりしたうしろ姿を見おくっていたが、戸がしまったあとまで、大河のにっと笑った顔が、あざやかに眼に残っていた。その笑顔《えがお》は、こないだの板木《ばんぎ》一件以来、これで二度目だったのである。
 かれは、いつまでもその笑顔にとらわれていた。まんまるな顔の輪郭《りんかく》、近眼鏡のおくにぎらりと光る眼、真赤な厚い唇《くちびる》、剃《そ》りあとの真《ま》っ青《さお》な頬《ほお》の肉、そうしたものが、組みあわさってできあがる大河の笑顔には、一種異様な表情があった。それは、決して冷たい皮肉だとは受け取れなかった。かといって、単なるあたたかい親愛感の表現と受け取るには、その奥《おく》に何かきびしすぎるものが感じられたのである。
 次郎は、その笑顔を思いうかべながら、風呂をわかすことについての大河との問答を心の中でくりかえした。そして、大河が最後に言った言葉まで来ると、われ知らず肩《かた》をすくめ、吐息《といき》をついた。
(やはり、どこか突《つ》きぬけたところのある人だ。ものごとにとらわれない、あの自然さは、ぼくなんかとは、まるで段がちがう。)
 かれは、それからもながいこと、机の上にほおづえをついて、大河の笑顔と言葉との意味を心の中でかみしめていた。かれの臂《ひじ》の下には、恭一から来たはがきがあった。
 と、だしぬけに、窓のそとから、給仕の河瀬《かわせ》の声がきこえた。
「本田さん、朝倉先生がお呼びです。空林庵のほうにおいでくださいって。」
 次郎が窓をあけると、
「どなたかお客さんのようですよ。」
「お客さん?」
 次郎の眼には、つい忘れかけていた恭一と道江の顔が、大河の顔に代わって、やにわに大きく浮《う》かんで来た。
「どんなお客さんだい。」
「大学生のようでしたが。」
「ひとり?」
「いいえ、女の人がいっしょです。」
「そうか、いま来たんかい。」
「ええ、たった今でした。」
 河瀬はにやにや笑っている。次郎は、自分がどんなおろかな問答をくりかえしているかには、まるで気がついていないらしく、
「今すぐ行くよ。」
 と、ぶっきらぼうに言って、窓をぴしゃりとしめた。
 かれは、しかし、容易に立ちあがろうとはしなかった。そして、机の上にあったはがきに、かなりながいこと眼をこらしていたが、いきなりそれをとりあげると、両手でもみくちゃにし、屑《くず》かごの中に投げこんだ。そのあと、やっと思いきったように、立ちあがるには立ちあがったが、それでもすぐには室を出ようとせず、うつろな眼を戸口に注《そそ》いだまま、立ちすくんでいた。
 かれが空林庵の玄関《げんかん》をはいったのは、それからおおかた、十分ほどもたったあとのことだったのである。
 先生の書斎《しょさい》からは、にぎやかな話し声がきこえていた。かれは、しいて自分をおちつけながら、玄関をあがり、書斎のふすまをあけたが、その瞬間《しゅんかん》、みんなの顔がピントのあわない写真のようにかれの眼にうつった。
「何かお仕事でしたの?」
 朝倉夫人がたずねた。
「ええ、……ちょっと。」
 次郎は、突っ立ったまま、どもるようにこたえた。
「めずらしいお客さまでしょう。」
「ええ。」
 次郎は、しかし、道江のほうは見ないで恭一に向かってわざとらしく、
「やあ。」
 と声をかけ、自分のすわる場所を眼でさがした。
「どうぞ、あちらに。」
 朝倉夫人に指さされた座ぶとんは、恭一と道江との間にはさまれていた。入り口に近いほうに夫人と道江、床《とこ》の間《ま》に近いほうに先生と恭一とが席を占《し》めていたのである。
 かれがまだ尻《しり》をおちつけないうちに、
「次郎さん、しばらく。」
 と、道江が座ぶとんを半分すべって、あいさつをした。
「やあ、しばらく。」
 次郎も、すぐあいさつをかえしたが、道江の顔をまともには見ていなかった。かの女《じょ》の羽織《はおり》や帯の色が、美しい雲のように、うずを巻いて、眼のまえに浮動《ふどう》するのが感じられただけだった。
「道江さんにお会いするのは、私も家内も今日がはじめてなんだよ。君のお父さんからのお手紙や何かで、お名前だけは、すこし前から存じていたんだがね。」
 朝倉先生が次郎に言った。次郎は、固くなって、
「はあ。」
 とこたえたきりだった。しかし、心の中では、父が朝倉
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