いられない。……くれぐれも言っておきたいのは、人間にとって良心の自由をまもるほどたいせつなことはない、ということだ。板木の音であれ、先生の言葉であれ、そのほか、そとから与《あた》えられたどんな刺激《しげき》であれ、それがきびしいから従う、甘《あま》いから軽んずるというのでなく、君ら自身の良心の自由な判断に訴《うった》え、従うべきものには進んで従い、従うべからざるものには断じて従わない、というようであってこそ、君らはほんとうの人間だといえるのだ。私は、愛情と忍耐心が足りないために、つい激しい言葉を使いすぎたが、それも、君らに、あくまでも良心的・自主的に行動してもらいたいと願っていたからのことだ。私は私として十分反省するが、どうか君らにも、私のその気持ちだけはくんでもらいたい。そして、その意味で、私の激しすぎた言葉をよいほうに生かしてもらいたいと思う。――最後に、私は君らとともに、永平寺の小僧さんが、礼拝《らいはい》しながら鐘をついたという、あの敬虔《けいけん》な態度の意味を、もう一度深く味わって、けさの私の話を終わることにしたい。」
みんなは、しずかに眼を見開いた。窓のすりガラスはもう十分明るくなっており、ほのかな紅をさえとかしていた。
だれの顔にも、何かしら、ゆうべとはちがった感情が流れており、互礼《ごれい》をすまして広間を出て行く時のみんなの足音も、これまでになく静粛《せいしゅく》だった。
七時の朝食までには、まだ二十分ほどの時間があり、その間に食事当番は食卓《しょくたく》の準備をやり、そのほかのものは、自由に新聞に目をとおしたり、私用をたしたりするのだった。次郎は、いつもなら、こんな時間にも、できるだけ塾生たちに接触《せっしょく》して、かれらの感想をきいたりするのだったが、今日は、広間を出るとすぐ、塾長室に行き、朝倉先生に向かって、なじるように言った。
「先生は、ぼくのやりそこないを、どうしてあからさまに話してくださらなかったんですか。」
「板木《ばんぎ》のことか。あれは、私が直接見ていたわけではなかったのだからね。」
「しかし、ぼくから先生にそう申しておいたんじゃありませんか。」
「うむ。それはきいた。しかし、私が何もかも知っていたことにすると、君の名前だけでなく、大河の名前も出さなければならなくなるんでね。」
「出してくだすってもいいじゃありませんか。」
「出してわるいことはない。しかし、出さないほうがいいんだ。少なくとも、今朝の話には、出さないほうがよかったんだ。」
次郎はちょっと考えていたが、
「ええ、それはぼくにもわかります。しかし、そのために、大河君がぬれ衣《ぎぬ》をきなければならないという道理はないでしょう。ぼくとしては、それがたまらないほど心苦しいんです。」
「心苦しければ、君自身で何とか始末したらいいだろう。原因はもともと君にあるんだから。……私は、板木の音そのものを問題にしただけなんだ。」
次郎は、朝倉先生らしくない詭弁《きべん》だという気がしてさびしかった。かれは語気を強めて言った。
「むろん、ぼくは大河君にあやまるつもりでいます。しかし、大河君としては、ぼくがあやまっただけでは、気がすまないでしょう。」
「そうかね――。」
と、朝倉先生は、まじまじと次郎の顔を見ながら、
「私は、大河をそんなふうに思うのは、むしろ大河に対する侮辱だという気もするんだがね。」
次郎は、いきなりぴしりと胸に笞《むち》をあてられたような気がした。かれの眼には、大河の、今朝のしずまりきった静坐の姿がひとりでに浮《う》かんで来た。むろん、先生に返す言葉は見つからなかった。先生は、すると、微笑《びしょう》しながら、
「君は大河の思わくなんかを問題にするまえに、君自身のことを問題にすべきだと思うが、どうだね。」
それは第二の笞だった。しかも、第一の笞よりはるかにきびしい笞だった。
「わかりました。」
と、次郎は眼をふせたまま頭をさげ、逃《に》げるように塾長室を出た。
やがて朝食の時間になった。次郎は箸《はし》をにぎっている間も、ときどき眼をつぶって、何か考えるふうだった。
食後には、みんな卓についたまま、雑談的に感想を述べあったりする時間が設けられていた。次郎は、その時間が来るのを待ちかねていたように立ちあがった。そして、みんなに今朝の起床の板木のいきさつを話し、最後につけ加えた。
「ぼくは、ながいこと友愛塾の仕事を手伝わせていただいていながら、その精神がまだちっとも身についていなかったために、けさのようなあやまちを犯してしまいました。ほんとうに恥《は》ずかしいことだと思っています。しかし、そのあやまちによって、開塾そうそう、大河君のような、友愛塾精神に徹底した、実践家《じっせんか》の魂《たましい》にふれることができたことを思いますと、一方では、かえってありがたいような気持ちもしています。」
みんなの視線は、もうさっきから大河に集中されていた。大河の顔には、しかし、それでてれているような表情はすこしも見られなかった。かれはただ一心に次郎の顔を見つめ、その声に耳をかたむけているだけであった。
そのあと、八時から正午まで、「郷土社会と青年生活」という題目で、朝倉先生の講義があり、午後は屋外|清掃《せいそう》と身体検査、夜は読書会や室内|遊戯《ゆうぎ》などで、開塾第一日の行事が終わった。
消燈まで、これといってとりたてていうほどの変わったこともなかった。しかし、大河無門が、かれ自身の希望に反して、あまりにも早くその存在を認められ、みんなの注目の的になったということは、この塾にとって、よかれあしかれ、決して小さなできごとではなかったといえるであろう。
朝倉夫人は、行事をおわって空林庵に引きあげるまえに、わざわざ次郎の室にやって来て、しばらく話しこんだ。その話の中にこんな言葉もあった。
「次郎さんの板木の打ちかたには、行事の性質や、そのときどきの必要で、少しずつちがった調子が出ますわね。あたしは、それがいいと思いますの。それでこそ、そのときどきの気分が出るんですもの。板木だって、打ちかた次第《しだい》では芸術になりますわ。あたし、次郎さんの板木の音をきいていると、いつもそう思いますのよ。先生には叱《しか》られるかもしれないけれど、今朝の打ちかただって、頭かぶせにわるいとばかりいえないんじゃないかしら。」
次郎は、それで安心する気にはむろんなれなかった。しかし、夫人がそんなことを言って自分をなぐさめるために、わざわざ自分の室にやって来たのだと思うと、何か心のあたたまる思いがした。そして、その日のかれの日記の中に、そのことが、今朝からのできごととともに、大事に書きこまれていたことは、いうまでもない。
七 最初の日曜日
最初の日曜が来た。開塾《かいじゅく》の日がちょうど月曜だったので、まる一週間になる。
この一週間は、塾生たちにとっては、まったく奇妙《きみょう》な感じのする一週間だった。朝倉先生夫妻も、次郎も、生活の細部の運営については、自分たちのほうからは、何ひとつ指図《さしず》をせず、また、塾生たちから何かたずねられても、「ご随意《ずいい》に」とか、「適当に考えてやってくれたまえ」とか、「みんなでよく相談してみるんだな」とかいったような返事をするだけだったので、とかくかれらはとまどいした。中には、それをいいことにして、ずるくかまえるものもないではなかった。その結果、むだ[#「むだ」に傍点]とへま[#「へま」に傍点]とがつぎつぎにおこり、かれらの共同生活のすがたは、見た眼《め》には決していいものではなかった。時には、不規律と怠慢《たいまん》だけが塾堂を支配しているのではないか、と疑われるような場面もあり、もし学ぶことよりも批評することにより多くの興味を覚えている参観者がたずねて来たとしたら、その人は、批評の材料をさがすのに、決して骨は折れなかったであろう。
朝倉先生は、しかし、どんな悪い状態があらわれて来ても、すぐその場でそれを非難することがなかった。すべてをいちおう成り行きにまかせ、行くところまで行かせておいて、あとで、――たとえば食後の雑談や、夜の集まりなどの際に、――それを話題にして、みんなといっしょに、その原因結果をこまかに究明し、その究明をとおして、共同生活の基準になるような原則的なものを探求する、といったふうだったのである。
塾生たちのある者にとっては、朝倉先生のそうしたやり方が、非常に皮肉に感じられた。
「気がついているなら、すぐそう言ってくれたらよかりそうなものだ」と、そんな不平をもらすものもあった。また中には、「先生は要するに指導者でなくて批評家だ」などと、したり顔に言うものもあった。しかし日がたつにつれて、しだいにかれらの間に取りかわされ出したのは、「ひまなようで、いやに忙《いそが》しい」とか、「しまりがないようで、変にきびしい」とか、そういったちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]な気持ちをあらわす言葉だった。
かれらの大多数は、まだむろん、人間生活にとっての自由の価値や、そのきびしさについて、ほんとうに目を覚《さ》ましていたわけではなく、友愛塾というところは一風変わった指導をやるところだぐらいにしか考えていなかった。しかし、それにしても、そうした言葉が、しだいにかれらの間にとりかわされるようになったということは、たしかに一つの進歩であり、混乱と無秩序《むちつじょ》の中で、不十分ながらも、何か自主的創造的な活動が始まっている証拠《しょうこ》にはちがいなかったのである。
日曜日は、特別の計画がないかぎり、朝食後から夕食前まで自由外出ということになっていた。東京見物を一つの大きな楽しみにして上京して来た塾生たちは、最初の夜の懇談会《こんだんかい》で、ほとんど議論の余地なく、満場|一致《いっち》でそれを決議していたのだった。
事務所にそなえつけてあった何枚かの東京地図は、すでに二三目前から各室で引っぱりだこだった。土曜日の晩には、炊事部《すいじぶ》はみんなの弁当の献立《こんだて》をするのに忙しかった。次郎が道順の相談のために、各室に引っぱりこまれたことはいうまでもない。そして、いよいよ日曜の朝食がすむと、二十分とはたたないうちに、塾内はもの音一つしないほど、しんかんとなってしまったのである。
みんなが出はらってしまうと、次郎も一週間ぶりで解放された時間を持つことができた。いつもだと、さっそく読書をやるか、空林庵《くうりんあん》に行って、朝倉先生夫妻とゆっくり話しこむかするはずだったが、今日は、事務室の隣《とな》りの自分の部屋で、机によりかかったまま、ながいことひとりで考えこんでいた。
机の上には、二三日まえ、兄の恭一《きょういち》から来たはがきが、文面を上にしてのっていた。それには、
「朝倉先生にもしばらくお目にかかっていないので、近いうちに、ぼくのほうから訪ねたいと思っている。塾がまたはじまったそうだから、先生も君も日曜でなければひまがないだろうと想像《そうぞう》して、だいたい今度の日曜を予定している。ぼくのほうはたぶん変更《へんこう》の必要はあるまいと思うが、君のほうでさしつかえがあったら、すぐ返事をくれたまえ。さしつかえなければ返事の必要はない。」
とあった。
次郎は、その中の「ぼくのほうはたぶん変更はあるまいと思うが」という文句が気になった。もし恭一だけの考えで日取りがきめられるものだったら、そんなあいまいな言いかたをするわけがない。これはだれかほかの人の都合を念頭においてのことらしい、もしそうだとすると、それは道江《みちえ》の着京の日取りにちがいないのだ。
では、なぜそれならそれとはっきり書かないのだろう。道江の名を書くのがきまりわるくて、暗々裡《あんあんり》にそれをほのめかしたつもりなのだろうか。あるいは、予告なしに道江をつれて来て、自分をおどろかすつもりなのだろうか。いずれにしても、自分にとっては、あまり愉快《ゆかい》なことではない。何と
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