らず道江を思い出し、道江を思い出すと、かならずそうした対話を思い出す。そのせいか、大巻への手紙はただ一回きりで、その後は父あての手紙に、大巻にもよろしくと書きそえるだけだった。
 道江本人に対しては、かれははがき一枚も書かなかった。道江のほうから、それをうらむようなことをいって来たこともあったが、その返事さえ出そうとしなかったのである。
 さて、塾の本館が落成したのは、翌年の一月半ばであった。それで住宅のほうもずっと楽になり、次郎は四畳半一間を自分の部屋に使うことができるようになった。そして二月はじめにはいっさいの準備がととのい、いよいよ第一回の塾生がはいって来ることになったのである。
 塾名を「友愛塾《ゆうあいじゅく》」といった。
 開塾の日取りが、次郎の中学卒業よりもわずかに一か月ばかり前になっていたのは、かれにとってくやしいことであったにちがいない。しかし、この半年ばかりの生活で、かれにはもう、自分はすでに塾堂とは切っても切れない縁を結んだ人間だ、という確信が生まれていた。そのせいか、最初の塾生になりたいというかれの希望は、今では是が非でもというほど強くはなかった。それに、朝倉先生が、これはむろん主として各方面の事情を考慮《こうりょ》してのことではあったが、いくらかはかれの気持ちをも察して、開塾式の日取りを日曜に選んでくれたおかげで、かれも入塾者の中にまじって式場につらなることができ、またその日じゅう彼等《かれら》と行動をともにし、夜になって最初の座談会がひらかれた際には、自己|紹介《しょうかい》まで同じようにやらしてもらったし、なお翌日からも、通学にさしつかえないかぎりは、すべて彼等と生活をともにすることもできたので、ほとんど最初の塾生といってもいいような気持ちで暮らすことができたのであった。
 塾生は、だいたい二十|歳《さい》から二十五歳ぐらいまでの勤労青年で、その七八割までが農業者だった。中に三十歳をこした教育者が二三まじっていたが、いずれにしても、各地の青年団員、もしくはその指導に密接な関係をもつものばかりであった。これは、この塾が地域共同社会の理想化に挺身《ていしん》する中堅《ちゅうけん》人物の養成ということにその主目標をおいていた自然の結果だったのである。
 塾生の学歴はまちまちだった。しかし、次郎の接したかぎりでは、かれがこれまで見て来た中学五年の生徒たちにくらべて、常識の点でも、理解力や判断力の点でも、はるかにすぐれていると思われる青年が大多数だった。
 次郎はそうした青年たちに接しているうちに、自分のこれまでの学生生活が、ほんとうの生活から浮きあがったもののように思われて恥《は》ずかしい気がした。朝倉先生は、かつて白鳥会の集まりで、学生が勤労青年を友人に持つことの必要を説いたことがあったが、その意味が今になってやっとわかるような気がするのだった。かれは次第に塾生たちに愛情と尊敬とを感じはじめていた。中学の卒業試験はもう間近にせまっていたが、かれの関心はそのほうの勉強よりも、少しでも多くの時間を彼等といっしょにすごすことに払《はら》われていたのである。
 しかし、かれにとっての最大の喜びは、何といっでも、田沼先生――開塾以来、田沼さんは自然みんなに先生と呼はれるようになっていた――にたびたび接して、直接言葉をかけてもらうようになったことであった。
 田沼先生は、塾財団の理事長という資格で、開塾式にのぞみ、一場のあいさつを述べたのであるが、次郎は、仏像の眼を思わせるようなその慈眼《じがん》と、清潔であたたかい血の色を浮かしたその豊頬《ほうきょう》とに、まず心をひきつけられ、さらに、透徹《とうてつ》した理知と燃えるような情熱とによって語られるその言々句々《げんげんくく》に、完全に魅《み》せられてしまったのであった。
「錦《にしき》を着て郷土に帰るというのが、古い時代の青年の理想でありました。もしそれで、郷土そのものもまた錦のように美しくなるとするならば、それもたしかに一つの価値ある理想といえるでありましょう。しかし事実は必ずしもそうではなかったのであります。錦を着て郷土に帰る者が幾人《いくにん》ありましても、郷土は依然《いぜん》としてぼろを着たままであり、時としては、そうした人々を育てるために、郷土はいっそうみじめなぼろを着なければならない、というような事情さえあったのであります。今後の日本が切に求めているのは、断じてそうした立身《りっしん》出世主義者ではありません。じっくりと足を郷土に落ちつけ、郷土そのものを錦にしたいという念願に燃え、それに一生をささげて悔《く》いない青年、そうした青年が輩出《はいしゅつ》してこそ、日本の国士がすみずみまで若返り、民族の将来が真に輝《かがや》かしい生命の力にあふれるのであります。」
 そんな言葉をきいた時には、次郎は自分の心に一つの革命が起こったかのようにさえ感じたのである。
 その後、かれが朝倉先生に紹介されて親しく接するようになった田沼先生は、ふかさの知れない愛と識見《しきけん》との持ち主であった。かれは、田沼先生のそばにすわっているだけで、自分の血がその愛によってあたためられ、自分の頭がその識見によって磨《みが》かれて行くような気がするのであった。
 朝倉先生の開塾式における言葉もまた、次郎にとって新しい感激《かんげき》の種だった。先生は、人間が本来もっている創造の欲望と調和の欲望とを塾生|相互《そうご》の間にまもり育てつつ、何の規則もなく、だれの命令もなしに、めいめいの内部からの力によって共同の組織を生み出し、生活の実体を築きあげて行きたい、といった意味のことを述べた。そうした共同生活の根本精神は、次郎がこれまで白鳥会においておぼろげながら理解していたことではあったが、まだはっきりした観念にはなっていなかったので、非常に新鮮《しんせん》なひびきをもってかれの耳をうつたのである。
 塾生活の運営は、しかし、実際にあたってみると、朝倉先生の理想どおりに進展するものではなかった。次郎は、期間の半ばを過ぎるまで、先生の顔にも、しばしば苦悩《くのう》の色が浮かぶのを見てとって、自分も心を暗くすることがあった。しかし、期間の終りが近づくにしたがって、だれの顔にも次第に明るさが見えて来た。
「塾生の言動に、このごろ、やっとうらおもてがなくなって来たようだね。」
 先生が夫人に向かってそんなことをいったのは、期間もあと十日かそこいらになったころであった。それに対して夫人は答えた。
「ええ、そのせいか、このごろほんとうに心からの親《した》しみが感じられて来ましたわ。それに、塾生同士の話しあいで、いろんないい計画が生まれて来ますし、あたし、もう何にもお世話することありませんの。」
 期間の終わりに近く、全塾生は三|泊《ぱく》四日の旅行に出た。朝倉先生夫妻も、むろんいっしょだった。次郎も、それには学校を休んでもついて行きたかったのであるが、あいにく卒業試験の最中だったので、どうにもならなかった。かれはここに来てから、この時の留守居《るすい》ほど味気ない気がしたことはなかったのである。
 終了式《しゅうりょうしき》にもかれはつらなることができなかった。やはり試験のためだった。朝倉夫人のあとでの話では、塾生たちがいよいよ門を出て行く前には、かなり涙《なみだ》ぐましい場面もあったらしかった。次郎はそんな話をきくにつけても、塾生と終始生活をともにする機会が一日も早く来ることを望まないではいられなかった。
 その機会は、しかし、そうながく待つ必要はなかった。というのは、かれが中学を卒業した翌月には、すでに第二回の塾生募集がはじまっていたからである。もっとも、かれにはまだ残された問題が一つあった。それは上級学校への進学の問題であった。このことについては、先生夫妻は、むろん極力かれに進学をすすめた。しかしかれはいつもの従順さに似ず、頑《がん》として自分の考えをまげようとしなかった。
「読書でできるかぎりは、ぼく、どんな勉強でもします。上級学校の講義程度のことなら、それで十分間に合うと思います。それに、上級学校に籍《せき》をおかなくても、それぐらいの知識が得られるということを一般《いっぱん》の勤労青年に知ってもらうこともたいせつではないでしょうか。ぼくは実際に自分でそれを証明してみたいと思っているのです。」
 これがかれの決心だった。この決心は、かれが第一回目の開塾以来考えぬいた結果固めていたことで、朝倉先生がそのために自分を放逐《ほうちく》するといわないかぎり、ひるがえさないつもりでいたのである。
 朝倉先生も、それにはとうとう根負《こんま》けして、
「では、いちおう君のお父さんに相談した上のことにしょう。なお、念のため、田沼先生のお考えもうかがって見るほうがいいね。」
 といって、その場を片づけた。そして、俊亮には手紙で、田沼先生には直接会ってその意見をただしてみたところ、俊亮からは、あっさり、本人の意志に任せる、といって来た。田沼先生も、本人の意志がぐらつきさえしなければそれもおもしろかろう、勤労青年相手の指導者には、そういう人物が必要だから、といって、むしろ賛意を表してくれた。なお、朝倉先生自身としても、まだ助手の適任者が見つからないでいたところだったので、次郎は、はじめのうちは塾生とも助手ともつかない立場で、あとでは一人まえの助手として、その後の塾生活にはいりこむことになったのである。こんなふうで、かれは現在までに、第一回目の中途半端《ちゅうとはんぱ》な体験までを合わせると、すでに九回の塾生活を送って来ており、間もなく、その第十回目の生活にはいろうとしているのである。その間に、かれはその心境においても、助手としての指導技術においても、また読書力においても、めざましい進歩のあとを示して来た。なお、かれについて特記すべきことのひとつは、かれが学校時代に大して熱意を示さなかった運動競技とか、音楽とか、娯楽遊戯《ごらくゆうぎ》とかいったことにも研究の手をのばし、今では技術的にも一通りの心得があり、それが塾生活の運営にかなりの役割を果たすようになって来たことである。
 朝倉先生夫妻が、その真剣《しんけん》な反省と創意工夫とによって、一回ごとに向上のあとを示したことは、いうまでもない。二人には、一般《いっぱん》の塾生活指導者にありがちな自己|陶酔《とうすい》ということが微塵もなかった。次郎の眼にはすばらしい成功だと映ることも、二人にとっては常に反省の資料であり、検討の余地を残すことばかりであった。「肝胆《かんたん》を砕《くだ》く」という言葉は、古人がこの二人のために残した言葉ではないかとさえ思われるほど、生活のあらゆる面について研究をかさね、工夫《くふう》を積んだ。それは、はた目には苦悩《くのう》の連続ともいうべきものであった。しかも、それでいて二人の気分はいつも澄《す》みきっており、あせりがなく、あたたかでほがらかだった。次郎は、そうした気分に接するごとに、二人がうらやましくも尊くも思え、同時に自分のいたらなさが省《かえり》みられるのだった。
 ある冬の朝、――それはたしか第四回目の塾生活がはじまろうとする数日前のことだったと思うが、――朝倉先生は、居間《いま》の硝子戸《ガラスど》ごしに、じっと庭のほうに眼をこらし、無言ですわっていた。そこへ次郎が朝のあいさつに行った。すると先生は黙《だま》ってかれに眼くばせした。かれにもそとを見よという合い図らしかった。次郎は、すぐ二人のうしろにすわってそとを見た。葉の落ちつくした櫟《くぬぎ》の林が、東から南にかけて、晴れた空に凍《い》てついている。日の出がせまって、雲が金色に燃えあがっていた。数秒の後、まぶしい深紅《しんく》の光が弧《こ》を描《えが》いてあらわれたと思うと、数十本の櫟の幹の片膚《かたはだ》が、一せいにさっと淡《あわ》い黄色に染まり、無数の動かない電光のような縞《しま》を作った。
「しずかであたたかい色だね。」
 朝倉先生は、櫟の林に
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