触《せっしょく》に接触を重ねて行くうちに、自然に各人の内部からいいものが芽を出し、それがみごとに共同生活に具体化され、組織化される、そういったところをねらうのが、今度の塾堂生活なんだ。」
 夫人も次郎もだまってうなずいた。
「まあ、しかし、こういうことはお互いにゆっくり話しあうことにして、さっそくかたづけなければならないのは、本田君の問題だ。中学校も五年になってからの転校は、どうせ公立では見込《みこ》みがないので、私立のほうの知人に二三|頼《たの》んではある。しかし、夏休みのせいか、まだはっきりした返事がきけないでいる。それがきまるまでは、君も落ちつかないだろうと思うが、どうだい、私が紹介状《しょうかいじょう》を書くから、君直接会ってみないか。」
「はあ――」
 次郎は気がすすまないというよりは、むしろ意外だという眼をして先生の顔を見た。
「私立ではいやなのか。」
「そんなことはありません。」
「じゃあ、会ってみたらいいだろう。私立でも、まじめな学校では、やはりいちおう本人に会ってみてからでないと入れてくれないからね。」
「先生!」
 と、次郎は急にからだを乗り出し、息をはずませながら、
「ぼくは先生の青年塾にはいるわけには行かないんですか。」
「青年塾に? 君が?」
 朝倉先生はおどろいたように眼を見はった。
「ぼくは、中学校を卒業することなんか、もうどうでもいいんです。先生が青年塾をお開きになるのを知っていながら、普通《ふつう》の中学校にはいるなんて、ぼくはとてもそんな気にはなれないんです。」
「ばかなことをいうものじゃない。私の計画している青年塾は、学校とはまるでちがうんだよ。現に働いている青年たちのために、ごく短期間の、――今のところながくてせいぜい二か月ぐらいにしたいと思っているが、――まあいわば一種の講習をくりかえして行くようなものなんだ。そんなところにはいって、君、どうしようというんだね。」
 次郎はだまりこんだ。かれは自分が想像していた塾とはかなり性質の違《ちが》ったものだということがわかり、ちょっと失望したようだった。しかし、どんな種類の塾にもせよ、その最初の塾生となって、塾風《じゅくふう》樹立《じゅりつ》に協力したいという希望は、やはり捨てたくなかったのである。
「そりゃあ、私としても、一度は君に一般《いっぱん》の勤労青年と生活をともにする機会を作ってもらいたいとは願っている。しかし、それは今でなくてもいいことなんだ。今のところは、何といったって中学を出て、上級の学校に進むように努力することがたいせつだよ。」
「ぼく、ほんとうは、先生が青年塾をお開きになるんなら、一生先生の下で働かしていただきたいと思っているんですけれど。」
 次郎はいくらかはにかみながらも、哀願《あいがん》するように言った。
「ありがとう。それは私ものぞむところだ。実は、機会が来たら、私のほうから君に願いたいと思っていたところなんだ。しかし、それにはやはり一通り基礎的な勉強をしてもらわなくちゃあ。」
「勉強は独学でもできると思います。それよりか、最初から先生の下でいろんな体験を積むことがたいせつではないでしょうか。」
「塾の大先輩《だいせんぱい》になろうとでもいうのかね。はっはっはっ。」
 と朝倉先生は愉快《ゆかい》そうに笑ったが、すぐ真顔《まがお》になり、
「なるほど、塾の気風を作るには、最初から君のような人にはいっていてもらえば大変ぐあいがいいね。これは、君のためというよりか、私にとってありがたいことなんだが。」
 次郎は、眼をかがやかした。朝倉先生は、しかし、また急に笑いだして、
「ところで、塾はまだできあがっているわけではないんだよ。建築その他に、少なくも三か月は見ておかなければならないし、趣旨《しゅし》を宣伝したり、募集の手続きをしたりしていると、いよいよ塾生が集まって来るのは、早くて半年後になるだろう。あるいは、君が中学校を卒業したあとで、第一回目が始まるということになるかもしれない。とにかく、君の転校の手続きだけは早くすましておくことだよ。何だかお互いに青年塾の夢にすっかり興奮してしまって、現実を忘れていた形だね。はっはっはっ。」
 夫人も次郎もつい笑いだしてしまった。
 こんなふうで、次郎はとにもかくにもある私立中学に通いだした。むろん学校にとくべつの期待もかけていなかったし、したがって大した不満も感じなかった。むしろ、科目によっては、郷里の中学におけるよりも学力のある先生がいたので、勉強にはかえって実がはいるくらいであった。
 そのうちに、塾堂の建築も次第《しだい》にはかどりだした。日曜には次郎もかかさず朝倉先生といっしょに下赤塚の駅におりたが、そのたびごとに、かれは、建物の位置とにらみあわせて、つつじその他の小さな樹木を幾本《いくほん》かずつ植えかえた。先生夫妻の住宅――その一室に次郎も自分の机をすえさしてもらうことになっていた――は、本館とは別棟《べつむね》にして、まず第一に着手されたが、その付近の小さな樹木は、ほとんどすべて次郎の手で整理され、南側には、いつの間にか小さな庭園らしいものさえできあがっていたのである。
 住宅が完全にできあがったのは、その年の十月はじめだった。夫人と次郎とは、それでまた引越しさわぎに忙殺《ぼうさつ》されたが、それはいかにも楽しい忙《いそが》しさだった。荷物を作ったり、解いたりする間に、次郎は、「本田さんとは、よくよくの因縁《いんねん》ですわね」といったかつての夫人の言葉を、何度思いおこしたかしれない。それに夫人は、このごろ、いつとはなしに、かれを「本田さん」と呼ぶ代わりに「次郎さん」と呼ぶようになっていたので、かれは心の中で、「次郎さんとは、よくよくの因縁ですわね」と夫人の言葉を勝手にそう言いかえたり、また、自分はこれから夫人を「お母さん」と呼ぶことにしようか、などと考えてみたりして、ひとりで顔をあからめたこともあった。
 できあがった住宅は、思いきり簡素だった。八|畳《じょう》に四畳半、それに玄関《げんかん》と便所とがついているきりだった。開塾後《かいじゅくご》は、食事は朝昼晩、塾生といっしょに本館でとることになっていたので、台所は四畳半の縁先《えんさき》に下屋《したや》をおろして当分間に合わせることになっていた。
 引越し荷物は決して多いほうではなかったが、それでも、この手ぜまな家にはどうにも納《おさ》まりかねた。本だけでも相当だった。本館ができあがると、そこに先生専用の室が予定されていたし、また物置きになるような部屋も当然できるはずだったので、何とか始末のしようもあったが、それまでは極度《きょくど》に不便をしのぶほかなかった。で、結局、四畳半と玄関とは当分物置きに使うことにし、八畳一間を三人の共用にした。その結果、ひる間は一つの卓《たく》を囲《かこ》んで食事もし、本も読み、事務もとり、夜は卓を縁側《えんがわ》に出して三人の寝床《ねどこ》をのべるといったぐあいであった。次郎は、先生夫妻に対してすまないという気で一ぱいになりながらも、心の奥底《おくそこ》では、それが楽しくてならないのだった。里子《さとご》時代に、乳母《うば》の家族と狭《せま》くるしい一室で暮《く》らしていたころの光景までが、おりおりかれの眼に浮《う》かんでいたのである。
 引越しがすんだあとでも、先生はとかく外出がちだった。おもな用件は、講師|陣《じん》の編成とか、助手や炊事夫《すいじふ》その他の使用人の物色《ぶっしょく》とかいうことにあったらしく、帰ってくるとその人選難をかこつことがしばしばだった。ことに講師陣の編成について苦労が多かったらしい。
「著書や世間の評判などをたよりにして、この人ならと思って会ってみると、思想傾向と人柄《ひとがら》とがまるでちぐはぐだったりしてね。知性と生活|情操《じょうそう》とがぴったりしている人というものは、あんがい少ないものだよ。」
 そんなことをいったりしたこともあった。
 先生が在宅の日には、よく夫人が外出した。それは寮母として参考になるような施設《しせつ》をほうぼう見学するためであった。また、その方面の参考書も、見つかり次第買って帰った。しかし、ふだんは先生の秘書役といったような仕事を引きうけ、また、先生の留守中は本館の工事のほうの相談にも応じていた。
 次郎は学校に通うので、まとまった仕事の手助けはあまりできなかったが、それでも家におりさえすれば、塾堂建設に役だつような仕事を何かと自分で捜《さが》しだして、それに精魂《せいこん》をぶちこんだ。畑も片っぱしから耕して種をまいた。鶏舎《けいしゃ》も三十|羽《ぱ》ぐらいは飼《か》えるようなのを自分で工夫《くふう》して建てた。こうしたことには、郷里でのかれの経験が非常に役にたった。そして、その年の暮れには、鶏《にわとり》に卵を生ませ、畑に冬ごしの野菜ものさえいくらか育てていたのである。
 かれは、上京以来、父の俊亮《しゅんすけ》にはたびたび手紙を書いた。それはすべて喜びにみちた手紙だった。恭一《きょういち》や大沢《おおさわ》や新賀や梅本《うめもと》にも、おりおり思い出しては、絵はがきなどに簡単な生活報告を書き送った。乳母のお浜《はま》には、郷里では久しく文通を怠《おこた》っていたが、いざ上京というときになって、ふと彼女《かのじょ》のことを思いおこし、妙《みょう》に感傷的な気分になった。で、くわしい事情はうちあけないで、単に東京に出て勉強することになったという意味のことだけ書きおくったが、それがきっかけになって、上京後も何度か絵はがきぐらいで便《たよ》りをした。そのほかにかれが手紙を書いたのは、正木一家と大巻一家とであった。正木の祖父母には、中学入学以来、自然接触がうすらいでいたが、幼時の思い出にはさすがに絶《た》ちがたいものがあり、ことに二人とももう八十に近い高齢《こうれい》なので、遠く隔《へだ》たったらいつまた会えるかわからないという懸念《けねん》もあった。で、上京前にはぜひ一度会っておきたいという気がしていたが、上京の理由を説明するのに気おくれがして、とうとう会わずに来てしまった。その謝罪の意味もふくめて、とくべつ長い手紙を書いたのである。大巻一家は、郷里では眼と鼻の間に住んでいて、こちらの事情は何もかも知りぬいており、上京前には、運平老《うんぺいろう》がわざわざかれのために「壮行会《そうこうかい》」を開いて剣舞《けんぶ》までやって見せてくれたりしていたので、手紙を書くのにも気は楽だった。しかし、その壮行会の席につらなった人たちの中に、恭一と道江《みちえ》という二人の人間がいて、何かにつけ睦《むつま》じく言葉をかわしていたことは、かれにとって消しがたい悩《なや》みの種になっていた。
「恭一さんは、大学はどちらになさるおつもり? 東京? 京都?」
「東京さ。」
「すると来年は次郎さんとあちらでごいっしょね。うらやましいわ。」
「道江さんは、女学校を卒業するの、さ来年だね。」
「ええ。」
「あと、どうする?」
「あたしも、東京に出て、もっと勉強したいわ。でも、うちで許してくれるかしら。」
「そりゃあ、話してみなけりゃあ、わからんよ。」
「恭一さんは賛成してくださる?」
「道江さんが本気で勉強する気なら、むろん賛成するさ。」
 次郎はそこまで回想しただけで、もう頭がむしゃくしゃして来るのである。しかも、そのあと、道江はだしぬけに、
「次郎さんも賛成してくださる?」
 と、質問をかれのほうに向けた。かれは、その時、
「う、うん、賛成してもいいね。」
 と、半ば茶化《ちゃか》したような調子で答えたが、それがゆとりのある茶化し方ではなく、むしろ虚《きょ》をつかれて、どぎまぎした醜態《しゅうたい》をかくすための苦しい方便でしかなかったことは、だれよりもかれ自身が一番よく知っている。その時、道江の顔にうかんだ変な笑い、それは自分に対する痛烈《つうれつ》な軽侮《けいぶ》の表現ではなかったのか。
 かれは大巻一家を思い出すと、かな
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