がいの責任だ。むろんこの設計は、明日からのすべり出しに、いちおうのよりどころを与えたまでで、これが最上のものであるとは保証できない。だから、だんだんやっていくうちに、不都合な点があれば、いつでも修正しようし、また、新しい案が出て、それがいいものであれば、どしどしとり入れて行くことにしたい。そういうことをやるのも、やはりおたがいの責任だ。あらためて言うが、友愛と創造、この二つを精神的基調として、これからのおたがいの生活を、すみからすみまで磨《みが》きあげ、いきいきとした、清らかな、そして楽しいものに育てあげていきたいと思う。」
 そのあと、就寝前の行事として、最初の静坐《せいざ》がはじまった。塾生たちは、各室ごとに、きちんと縦《たて》にならび、朝倉先生の指導にしたがってその姿勢をとった。
 次郎は足音をたてないように、みんなの間をあるきまわり、いちじるしく姿勢のわるいのを見つけると、それをなおしてやった。
 まっさきにかれの目についたのは、田川だった。田川はいやに胸を張り、軍隊流の不動の姿勢でしゃちこばっていた。そして、次郎が肩《かた》から力をぬかせようと、どんなに骨をおっても、なかなかそうはならなかった。これに反して、飯島は最初から、ごく器用に正しい姿勢をとっていた。もしかれが、おりおりうす目をあけて朝倉先生の顔をのぞくようなことさえしなかったら、かれの静坐は、塾生の中でも、最もすぐれた部類に属していたのかもしれなかったのである。
 静坐は十分足らずで終わった。
 次郎は、いつになくつかれていたが、床《とこ》についてからも、なかなか寝《ね》つかれなかった。

   六 板木の音

 コーン、コーン、――コーン、コーン。
 凍《こお》りついたような冷たい空気をやぶって、板木が鳴りだした。そとはまだ、真っ暗である。白木綿《しろもめん》の、古ぼけたカーテンのすき間から、硝子戸《ガラスど》ごしに、大きな星がまたたいているのが、はっきり次郎の眼に映った。
 かれは、あたたかい夜具をはねのけ、勢いよく起きあがって、電燈《でんとう》のスウィッチをひねった。その瞬間《しゅんかん》、枕時計《まくらどけい》がジンジンと鳴りだした。きっかり起床《きしょう》時刻の五時半である。
 いそいで、寝巻《ねまき》をジャンパーに着かえ、夜具を押し入れにしまいこむと、ぞんぶんに窓をあけた。風はなかったが、そとの空気が、針先《はりさき》をそろえたように、顔いっぱいにつきささった。
 かれは、そのつめたい空気の針をなぎ払《はら》うように、ばたばたと部屋中にはたきをかけはじめた。
 開塾《かいじゅく》中は、次郎は、朝倉先生夫妻だけを空林庵《くうりんあん》に残して、本館の事務室につづく畳敷《たたみじ》きの小さな部屋に、ひとりで寝起きすることにしているのである。
 次郎がはたきをかけおわり、箒《ほうき》をにぎるころになっても、ほかの部屋は、まだどこもひっそりと静まりかえっていて、板木の音だけが、いつまでも鳴りつづけていた。
 かれは、むろん、そのことに気がついていた。しかし、べつに気をくさらしてはいなかった。毎回開塾の当初はそうだったし、時刻どおりに板木が鳴ることさえ珍《めずら》しかったので、今朝の板木当番の正確さだけでも上できだぐらいに思っていたのである。
 かれは、掃除《そうじ》をしながら、根気よく鳴りつづけている板木の音に、ふと好奇心《こうきしん》をそそられた。それは、鳴りはじめた時刻がきわめて正確だったからばかりでなく、その音の調子に何かしら落ちつきがあり、しかも、いつまでたってもそれが乱れなかったからであった。
(最初の朝の板木の音が、こんなだったことは、それまでにまったくないことだ。だれだろう、今朝の当番は?)
 そう思ったとき、自然に、かれの眼にうかんで来た二つの顔があった。それは、大河無門の顔と、青山敬太郎のそれだった。ゆうべの懇談会の様子から判断して、こんな落ちついた板木の打ちかたのできるのは、おそらくこの二人のほかにはないだろう。そして、第一週の管理部の責任をひきうけたのは第五室だったのだ。――そこまで考えると、かれはもう、今朝の板木が大河の手で打たれていることはまちがいないことだと思った。
 かれは、自分の部屋の掃除をすますと、そっと事務室との間の引き戸をあけた。いつもなら、そのあとすぐ事務室の掃除にとりかかる順序だったが、しばらく敷居《しきい》のところに突っ立って耳をすました。それから、足音をしのばせるようにして入り口に近づき、ドアを細目にあけて、板木のほうに眼をやった。板木は、事務室前の廊下《ろうか》と中廊下との角に、斜《なな》め向きにかかっていたのである。
 板木を打っていたのは、はたして大河無門だった。シャツにズボンだけしか身につけていず、足袋《たび》もはいていなかった。しかし、べつに寒そうなふうでもなく、両足をふんばり、頭から一尺ほどの高さの板木を、近眼鏡の奥《おく》から見つめて、いかにも念入りに、ゆっくりと槌《つち》をふるっていた。
 次郎は、思いきりドアをあけ、
「おはようございます。」
 とあいさつして、大河に近づいた。
 大河は、その時、ちょうど槌をふりあげたところだったが、それを打ちおろしたあと、ちらと次郎のほうを見て、あいさつをかえした。
 そして、そのまま、すこしも調子をかえないで、また槌をふるいつづけた。
「もういいでしょう。ずいぶんながいこと打ったんじゃありませんか。」
 次郎が、寒そうに肩《かた》をすくめながら、言うと、
「ええ、でも、まだだれも起きた様子がないんです。」
 と、大河は槌をふるいながら、こたえた。
「しかしもう眼はさましていますよ。」
「そうでしょうか。」
「きっとさましていますよ。どの室にも、眼をさましているものが、もう何人かはあるはずです。」
 大河は、それでも同じ調子で打ちつづけながら、
「いつもこんなに起きないんですか。」
「ええ、はじめのうちは、いつもこんなふうですよ。五分や七分はたいていおくれます。」
「すると、起こしてまわるほうが早いですかね。」
「そうかもしれません。しかし、それはやらないほうがいいでしょう。板木《ばんぎ》で起きる約束《やくそく》をしたんですから。」
「じゃあ、やはり打ちつづけるよりほかありませんね。」
「打ちやめると、それでかえって起きることもありますがね。」
「なるほど。……ふん。……そういうものですかね。……あるいはそうかもしれない。」
 大河は、ひとりごとのように、そう言いながら、やはり打ちやめなかった。そして、相変わらず板木に眼をすえ、
「ぼくたち、学生時代の学寮《がくりょう》生活を自治だなんていって、いばっていたものですが、本気にやろうとすると、実際むずかしいものですね。」
「ええ、結局は一人一人の問題じゃないでしょうか。」
「ぼくもそうだと思います。命令者に依頼《いらい》する代わりに、多数の力に依頼するんでは、自治とは言えませんからね。」
 次郎は大河の横顔を見つめて、ちょっとの間だまりこんでいたが、ふと、何か思いついたように、
「ちょっとぼくに打たしてみてください。」
 大河は板木を打ちやめ、けげんそうに次郎のほうをふり向いて槌をわたした。次郎は、すぐ大河に代わって板木を打ちだしたが、その打ちかたは、一つ一つの音が余韻《よいん》をひくいとまのないほど急調子で、いかにも業《ごう》をにやしているような乱暴さだった。
 大河は、あきれたように、その手ぶりを見つめて立っていた。次郎は、しかし、それには気づかす、おなじ乱暴な調子で、つづけざまに三四十も打つと、急にぴたりと手をやすめた。そして、半ば笑いながら、言った。
「板木を打つのは、もうこれでおしまいにしましょう。これで起きなけれぼ、ほっとくほうがいいんです。」
 ところで、かれの言葉が終わるか終わらないうちに、二三の室から、急にさわがしい人声や物音が、廊下をつたってきこえだした。
「起きだしたようです。もうだいじょうぶですよ。」
 次郎は、そう言って、槌を柱にかけ、事務室のほうにかえりかけた。すると、その時まで眉根《まゆね》をよせるようにしてかれの顔を見つめていた大河が、急に、真赤な歯ぐきを見せ、にっと笑った。そして、
「なんだか、ひどく叱《しか》りとばされて、やっと起きた、といったぐあいですね。」
「はっはっはっ。」
 次郎は愉快《ゆかい》そうに笑って、事務室にはいり、すぐ掃除《そうじ》をはじめたが、その時になって、大河のにっと笑った顔と、そのあとで言った言葉とが、変に心にひっかかりだした。
 塵《ちり》を廊下に掃《は》き出すと、かれはバケツに水を汲《く》んで来て、寝間《ねま》と事務室とに雑巾《ぞうきん》がけをはじめた。窓をすっかりあけはなった、まるで火の気のない、二月の朝の空気は、風がないためにかえってきびしく感じられた。これまでたびたび同じ経験をつんできたかれにとっても、仕事は決してなまやさしいものではなかった。どうかすると、手がしびれるようにかじかんで、雑巾が思うようにしぼれず、また、拭《ふ》いたあとの床板が、つるつるに凍ることさえあるのだった。かれは、しかし、二つの室をすみからすみまで、たんねんに拭《ふ》きあげた。
 もう、そのころには、廊下を行き来する塾生たちの足音も頻繁《ひんぱん》になり、ほうぼうから、わざとらしいかけ声や、とん狂《きょう》な笑い声などもきこえていた。ゆうべの懇談会で分担《ぶんたん》をきめ、かれら自身の室はもとより、建物の内部を、講堂や、広間や、便所にいたるまで、全部|清掃《せいそう》することに申し合わせていたので、かれらも、まがりなりにも責任だけは、果たさなければならなかったし、それに、きびしい寒さと、おたがいの眼とが、かれらを、外見だけでも、いかにも忙《いそが》しそうな活動に駆《か》りたてていたのである。
 次郎は、自分の責任である二つの室の掃除を終わると、すぐ便所掃除の手伝いに行った。これは、かれが助手として塾生活をはじめた当初からの、一つの誓《ちか》いみたようになっていたのである。
 かれが、便所に通ずる廊下の角をまがると、一段さがった入り口のたたきの上に立って、何かしきりと声高《こわだか》にがなりたてている一人の塾生がいた。見ると、飯島好造だった。
「おはよう。ここは何室の受け持ちでしたかね。」
 次郎は近づいて行って声をかけた。
「第五室です。僕《ぼく》たちで、最初にここを受け持つことにしたんです。」
 飯島は、いかにも得意らしくこたえた。
 ゆうべの懇談会で、日々の掃除の分担は管理部で割りあて、毎晩|就寝前《しゅうしんまえ》に、翌日の分を各室に通告するということにきまったのだったが、その管理部の責任を、最初の一週間第五室が負うことになっている関係上、だれしもいやがる便所掃除を、まず手始めに自分たちで引きうけることにしたものであろう。それはそれで、むろんいいことにちがいない。しかしあたりまえ以上のいいことでもなさそうだ。――次郎は、つい、そんな皮肉な気持ちになったのだった。
 しかし、つぎの瞬間《しゅんかん》に、かれの頭にひらめいたのは大河無門のことだった。かれは、すると、もう飯島の存在を忘れて、大河の姿を便所のあちらこちらにさがしていた。
 左右の窓の下に、小便つぼがそれぞれ七つほど並《なら》んでおり、そこを四人の塾生が二人ずつにわかれて、棒だわしで掃除していたが、その中には、大河の姿は見えなかった。
 つきあたりに、大便所がこれも七つほどならんでいる。そのうちの、右はじの一つだけが戸が開いており、その少し手前の、たたきの上に、水をはったバケツが一つ置いてあるのが見えた。戸の開いた便所の内側は、電燈の光を斜《なな》めにうけているので、よくは見えない。しかし、だれか中で掃除をしていることだけはたしかだった。六人の室員のうち、飯島は入り口に立っており、両がわの小便所に二人ずつ働いているのだから、あとの一人は大河にきまっている。次郎は、そう思って、すぐ声をか
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