の精神なのだから、それを忘れないで、各室で仲よく、しかも活発に頭をはたらかして、夕食後の集まりまでの時間を十分に生かしてもらいたい。」
 次郎の眼は、その話の間にも、注意ぶかく塾生たちの顔に注がれ、その動きからたえす何かを読もうとしていた。とりわけ大河無門はかれの注目の的だった。しかし、どの顔にも、これといって変わった表情は見られなかった。大河無門の近眼鏡の奥《おく》に光っている大きな眼は、特異な眼ではあったが、それもふだんと変わった表情をしているとは思えなかった。みんなは、ただかしこまって朝倉先生の言葉をきいているというにすぎないらしかった。
 次郎の張りつめていた注意力は、いくらか拍子抜《ひようしぬ》けの気味だった。
 かれはその日、田沼先生とふたたび顔をあわせる機会がなかった。塾生たちの「探検」の案内をしている最中に、先生が帰って行ってしまったので、見おくることもできなかったのである。朝倉夫人が、あとでかれに話したところによると、先生は、玄関を出がけに、
「友愛塾の関係者も、今日は軍から正式に自由主義者のレッテルをはられたわけですね。奥さんもその有力なメンバーですから、これからは何かと風当たりが強くなるかもしれませんよ。そのうち、憲兵なんていう、招かれざるお客もたずねて来るでしょう。ご迷惑《めいわく》ですね。」
 と、冗談めかしていい、朝倉先生と二人で、声をたてて笑ったそうである。

   五 最初の懇談会《こんだんかい》

「何だか、だらしがないね。やっぱり自由主義的だよ。」
 次郎が、夕食後、小用をたしたかえりに第一室の前を通りかかると、中から、すこししゃがれた声で、そんな言葉がきこえて来た。かれは思わず立ちどまって耳をすました。
「探検だなんていうから、よほどめずらしい設備でもあるのかと思うと、何もありゃあしないじゃないか。このぐらいの設備なら、どこの青年道場にだってあるよ。」

 同じ声である。次郎は自分の印象に残っている室員の顔の中から、声の主をさがしてみたが、まるで見当がつかなかった。
「そりゃあ、そうだね。」
 と、ちがった声が相づちをうった。それはしかし、大して気乗りのした相づちだとは思えなかった。すると、また、しゃがれた声が、
「探検だの、室ごとの相談だの、まったく時間の浪費《ろうひ》だよ。塾生活《じゅくせいかつ》の設計だなんていったって、はいって来たばかりの僕《ぼく》たちに、そんなことができるわけがないじゃないか。ね、そうだろう。」
「じっさいだね。」
 第三の声が、今度は心から共鳴したらしくこたえた。
 そのあと、しばらくは、がやがやといろんな声が入りみだれた。どの声もいくぶんうわずった真剣味《しんけんみ》のない声だったが、しゃがれた声に相づちをうっていることはたしかだった。おりおり、何かを冷笑するような声もまじっていた。
 そうしたざわめきをおさえつけるように、また、しゃがれた声がいった。
「だからさ、だから、もう相談なんかする必要はないよ。」
 みんなは、ちょっとの間|沈黙《ちんもく》したが、すぐだれかが、
「しかし、懇談会がはじまったら、何とか報告はしなくちゃならないんだろう。」
「そりゃあ、報告はするさ。ぼく、やってもいいよ。」
「何と報告するんだい。」
「相談の必要なし、ということに相談できめた。そういえばいいだろう。」
 どっと笑い声がおこった。すると、しゃがれた声が、おこったように、
「ぼく、ふざけていってるんじゃないんだ。じっさいそうだから、そういうよりほかないじゃないか。もしそれでいけなかったら、ぼくいつでも退塾するよ。わざわざ旅費を使って出て来たのが、ばかばかしいけれど、しかたがない。」
 室内が急にしいんとなった。
 次郎は、これまでの例で、この日の室ごとの相談会に大した期待はかけていなかった。また、軽い気持ちでなら、かれらの間にそうした言葉のやりとりぐらいはあるだろう、とも想像していた。しかし、しゃがれた声の調子はあまりにもいきりたっていたし、それを今朝の式場での平木|中佐《ちゅうさ》の言葉と結びつけて考えないわけには行かなかった。
 かれは変な胸さわぎを覚えながら、息をころしていた。
「じゃあ、君にまかせるかな。」
 だれかが不安そうにいった。
「ほかの室では、どうなんだろう。」
 べつの声で、これもいかにも不安そうである。
「ぼく、様子を見て来るよ。」
 だれかが立ちあがる気配《けはい》だった。
 次郎は、それであわてて事務室のほうにいそいだ。
 かれは、事務室にはいっていって自分の机のまえに腰《こし》をおろすと、急に、立聞きをしたり、あわてて逃《に》げだしたりした自分のみじめさが省《かえり》みられて、さびしかった。それは、変にいらいらしたさびしさだった。しだいに腹もたって来た。いつもなら、ごく気軽に、いまのことを朝倉先生に報告するところだったが、――そして今日の場合、とくべつその必要が感じられていたはずなのだったが――なぜか、かれは、いつまでも机の上にほおづえをついたまま、動こうとしなかった。
 それでも、七時になると、かれは元気よく立ちあがって、廊下《ろうか》の板木《ばんぎ》を打ち、そのまま広間にはいって行った。夜の懇談会がはじまる時刻だったのである。
 みんなが集まると、朝倉先生のつぎの言葉で懇談会がはじまった。
「では、これから、いよいよおたがいの共同生活の具体的な設計にとりかかりたいと思う。それには、まず、各室で話しあった結果をいちおう報告してもらって、それを手がかりに相談をすすめることにしたい。どの室からでもいいから、遠慮《えんりょ》なく発表してくれたまえ。」
 塾生たちは、しかし、そう言われても、おたがいに顔を見合わせるだけで、だれも口をきこうとするものがなかった。次郎は、第一室のしゃがれ声の発言を、今か今かと待っていたが、それもすぐには出そうになかった。
 かなりながい沈黙がつづいた。
 朝倉先生は、しかし、そんなことは毎回慣らされていることなので、ちっとも困ったような顔を見せなかった。みずから考え、みずから動く訓練よりも、指導者の意志どおりに動く調練をうけることによって、よりよき人間になると信じこまされて来た青年たちにたいして、塾堂の主脳者たる自分から、そんなふうに相談をもちかけることが、いかに場ちがいな感じを彼等《かれら》にあたえるかは、先生自身が、一ばんよく知っていたのである。
 先生は、しんぼうづよく待った。待てば待つほど沈黙が探まった。しかし、こうした沈黙というものは、ある程度以上に深まるものではない。またそうながくつづくものでもない。というのは、だれも自分の考えを深めるために沈黙しているのではなく、ただ沈黙のやぶれるのをおたがいに待っているにすぎないような沈黙でしか、それはないのだから。――このことについても、先生は決して無知ではなかったのである。
 事実、三分とはたたないうちに、沈黙に倦怠《けんたい》を感じたらしい視線が塾生たちの間にとりかわされはじめた。すると、その視線にはげまされたように、ひとりの塾生が口をきった。
「ぼくは第五室ですが、さっき板木が鳴るまで真剣に話しあってみました。しかし、話がばらばらになって、まだ、まとまった案が何もできていないのです。ほかの室はどうでしょうか。」
 いくぶん気がひけるといった調子で、そういったのは、塾生中での最年長者でもあり、郡の連合青年団長でもあるというので、次郎が気をきかして、大河無門と同室に割り当てておいた、飯島好造という青年だった。職業は農業となっていたが、農村青年らしい風はどこにもなく、つやつやした髪《かみ》を七三にわけて、青白い額《ひたい》にたらし、きちんと背広を着こんだところは、どう見ても小都会のサラリーマンとしか思えなかった。
 本人が第五室といったので、朝倉先生もすぐ思いあたったらしく、名簿《めいぼ》を見ながら、たずねた。
「飯島君だね。」
「ええ。」
 飯島は、自分の存在がすでに塾長にみとめられているのを知って、ちょっと意外に感じたらしかったが、つぎの瞬間《しゅんかん》には、もう、いかにも得意らしくあたりを見まわし、自分をみんなに印象づけようとするかのような態度を見せていた。
 朝倉先生は、その様子を見まもりながら、
「そりゃあ、二時間や三時間のわずかな時間で、ここの生活全体についての案をまとめあげるわけには行かないだろう。しかし、部分的なことで、こんなことをぜひやってみたいというような希望なら、何か一つや二つはまとまりそうなものだね。」
「それがなかなかそうはいかないんです。」
 と、飯島は、もうすっかりなれなれしい調子になり、
「何しろ、責任をもって話をまとめる中心がないんでしょう。ですから、ただめいめいにわいわいしゃべるだけなんです。中には、手紙を書いたり、雑誌をよんだりして、話に加わらないものもありますし……」
「なるほどね。」
 と、朝倉先生は、飯島の言うことを肯定《こうてい》するというよりは、むしろさえぎるように言って、眼《め》をそらした。そしてちょっと思案したあと、
「ほかの室はどうだね」
 返事がない。塾生たちの大多数は、ただにやにや笑っているだけである。次郎は、第一室の一団に眼をやったが、気のせいか、どの顔も変に緊張《きんちょう》しているように思えた。
「どの室も、やはり同じかな。」
 と、朝倉先生は微笑《びしょう》しながら、
「すると、わずか六人の共同生活でも、だれか中心になる人がいないと、うまく行かないという結論になるわけだね。」
 みんなの中には、それを自分たちに対する非難の言葉とうけとって、頭をかいたものもあった。しかし、大多数は、それがあたりまえだ、といった顔をしている。とりわけ、飯島の顔にそれがはっきりあらわれていた。かれはいくらか抗議《こうぎ》するような口調で言った。
「ぼくは、中心のない社会なんて、まるで考えられないと思います。おたがいに協力することは、むろんたいせつですが、みんなが平等の立場でそれをやったんでは、どんな小さな社会でも、まとまりがつかなくなってしまうのではないでしょうか。」
「大事な問題だ。そういうことを理論と実生活の両面から、もっと深く掘《ほ》りさげて行くとおもしろいと思うね。平等という言葉なんかも、うかうかとは使えない言葉だし……しかし、そうした研究は、ゆっくり時間をかけてやることにして、とりあえず必要なことは、あすからの生活を具体的にどうやっていくかだ。まがりなりにもその生活計画がたたなくては、まるで動きがとれないのだから、さしあたり必要なことだけでも、きめておこうじゃないか。」
「そんなことは、先生のほうでびしびしきめていただくほうが、めんどうがなくていいんじゃありませんか。」
「めんどうがない? なるほどめんどうはないね。しかし、みんなでめんどうを見るのが、ここの生活ではなかったのかね。」
「しかし、それでは、時間ばかりくって、実質的なことが何もできなくなってしまうと思うんです。」
「何が実質的なことか、それも問題だ。君が時間のむだづかいだと考えていることに、あんがい人間としての実質的な修練に役だつことがないとも限らんからね。しかし、そんなこともおいおい考えることにしよう。そこでさっきの話だが、どの室でもわずか六人の話しあいが、今のままでは、うまくいかないということだったね。」
「そうです」
「各室だけの話しあいさえうまくいかないようでは、これだけの人数の共同生活が成りたつ見込《みこ》みは絶対になさそうだ。だから、まず、第一にその問題から解決してかからなければならないが、それはどうすればいいのかね。」
「室長といったものをきめさえすれば、何でもなく解決するんじゃありませんか。」
 飯島は、いかにも歯がゆそうに言った。
「そう。まあ、そんなことかな。室長というものが、はたしてどの程度に必要なものか、あるいは、六人ぐらいの人数では、これからさき君たちの生活のやり方|次第《しだい》で、その必要がないということに
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