かかった。今日は式の時間がのびたので、午後の行事は、三十分ほどくり下げて一時半からということになっていた。それまでには、まだ十五六分の時間がある。いつもなら、そうしたわずかな時間でも、ぼんやりしてはいないかれだったが、今日の式場と食卓とでうけた刺激《しげき》の余波《よは》は、かれに小まめな仕事をやらせるには、まだあまりに高かったし、床の間の「平常心」の掛軸《かけじく》は、やはりかれにとっては全くべつの世界の消息をつたえるものでしかなかったのである。
 かれは、荒田老と平木中佐の顔を代わる代わる思いうかべながら、陽を背にして眼をつぶっていた。すると、だしぬけに、
「どうだ、つかれたかね。昨日から、ずいぶん忙《いそが》しかったろう。」
 そういってはいって来たのは田沼先生だった。
 次郎は、目を見ひらき、あわてて居《い》ずまいを正した。
「そう窮屈《きゅうくつ》にならんでもいい。」
 田沼先生は、次郎とならんで窓わくによりかかりながら、
「今度の塾生には、変わったのが一人いるらしいね。」
「ええ。」
 次郎の頭には、すぐ大河無門の顔がうかんで来た。しかし、「変わった」という先生の言葉の意味がちょっとうたがわしかったらしく、
「大河っていう人のことでしょう。」
「うむ、大河無門、さっき名簿で見たんだが、めずらしい名前だね。」
「ええ、名前もめずらしいんですが、人間も非常にめずらしいんじゃないかと思います。」
「私もそう思う。たしかにめずらしい青年だよ。」
「もう本人をご存じなんですか。」
「まだ直接会ってはいない。しかし、式場で眼についたので、朝倉先生にたずねて見たんだ。」
 次郎は、「式場で眼についた」ときいた瞬間《しゅんかん》、何か明るいものが胸の中にさしこんだような気がした。かれはうれしくなって、膝《ひざ》をのり出しながら、
「あの人、大学を出ているんです。」
「そうだってね。」
「年も、ぼくよりずっと上なんです。」
「そうだろう。顔を見ただけでも、たしかに君の兄さんだ。それに――」
 と田沼先生は、ちょっと微笑して、
「精神|年齢《ねんれい》のほうでは、いっそう年上らしいね。」
 次郎はそれを冗談だとは受け取らなかった。かれは真剣《しんけん》な顔をして、
「ぼく、あの人が塾生で、ぼくが助手では、変だと思うんですけれど……」
「どうして? それはかまわんさ。本人が塾生を希望しているし、また、君が助手だからといって、大河を先輩《せんぱい》として尊敬できないという理由もないだろう。」
「それはむろんそうですけれど……」
「それとも、大河に気押《けお》されて、やるべきことがやれないとでもいうのかね。」
「そんなことはありません。ぼくはただ朝倉先生のあとについて、仕事をやっていくだけのことなんですから。」
「じゃあ、何も気にすることはないじゃないかね。」
「ええ。」
 と、次郎はこたえたが、まだ何となく気持ちを始末しかねているふうであった。
 田沼先生は、しばらくその様子を見まもったあと、
「やはり気がひけるらしいね。」
「ええ、ぼく、代われたら代わりたいと思うぐらいなんです。」
「代わる? そんなことはできないよ。かりにできたところで、それは小細工《こざいく》というもんだ。そんな小細工をするよりか、与《あた》えられた立場をそのまますなおに受け取って、それを生かす工夫《くふう》をしたらどうだ。君自身のためにも、大河のためにも、塾生たちみんなのためにも、生かそうと思えばどんなにでも生かされると思うがね。私は、ある意味では、むしろ、いいチャンスが、君にめぐまれたとさえ思っている。元来、環境《かんきょう》というものは、それが不合理であっても、無理に小細工をして変えようとしてはならないものなんだ。まずその環境をそのまま受け取って、その中で自分を練りあげる。それでこそほんとうの意味で環境に打《う》ち克《か》てるし、またそれでこそ、どんな不合理も自然に正されていくだろう。私は何事についても、そういう考えから出発したいと思っている。暴力に訴《うった》える社会革命に私が絶対に賛成できないのも、根本はそういうところにあるんだ。」
 次郎はじっと考えこんだ。すると田沼先生は急に笑いだし、
「つい、話がとんでもない、大きな問題に飛躍《ひやく》してしまったね。しかし、真理は問題の大小にかかわらないんゼ。小細工はいわば小さな暴力革命だし、暴力革命はいわば大きな小細工だからね。……大きな小細工なんて、言葉はちょっと変だが。……とにかく君は、君のやるべきことを落ちついてやって行くことだ。大河に気おくれして仕事がにぶってもならないし、かといって、大河に心で兄事《けいじ》することを忘れてもならない。世間には、先生よりも弟子《でし》のほうが偉《えら》い場合だってよくあることだし、それは気にすることはない。大事なのは、そういう関係を先生も弟子も、どう生かすかを考えることだよ。」
 次郎はやはり考えこんでいた。田沼先生も何かしばらく考えるふうだったが、
「ところで、どうだね、今日の気持ちは? 式場では、いつもに似ず、まごついていたようだったが。……」
 次郎は、田沼先生が、わざわざ広間にやって来て自分に話しかけた目的はこれだな、と直感した。同時に、かれの胸の中では、感謝したいような気持ちと圧迫《あっぱく》されるような気持ちとが入りみだれた。かれはすぐには答えることができなかった。自分の感想を、あからさまにいうのが、何となくはばかられたのである。
 それに、今はもう式場や食卓で感じた不愉快な気持ちもかなりうすらいでいて、だれかにそれをぶちまけなければ治まらないというほどではなかった。大河無門が早くも田沼先生の注目をひいているということを知ったことで、かれの気分がかなり明るくなっていたうえに、さっきから二人で取りかわした問答の間から、自分の生き方に何か新しい方向を見いだしたような気になり、そのほうにかれの関心が高まりつつあったのである。
 かれには、これまでとはまるでちがった気持ちと態度とをもって、戦いに臨《のぞ》もうとする意志が、ほのかに湧《わ》きかけていた。むろんそれが決定的にかれの行動を左右するまでには、まだ数多くの試練を経《へ》なければならなかったであろう。しかし、少なくともかれの頭だけでは、そうした意志に生きることの必要が、かなりはっきりと理解されていたようであった。――真の勝利は、相手を憎《にく》み、がむしゃらに相手に組みつくだけでは、決して得られるものではない。自分みずからを充実《じゅうじつ》させることのみが、それを決定的にするのだ。友愛塾の精神を勝利に導く手段もまたそこにある。そして、友愛塾の内容を充実させるために、自分にとって必要なことは、友愛塾の助手としての自分の道を、ただまっしぐらにつき進みつつ、人間としての自分を充実させることであって、いたずらに荒田老や平木中佐の言動を気にし、かれらに対して感情的に戦いをいどむことではない――かれの頭は次第にそんな考えに支配されはじめていたのであった。
 かれが答えをしぶっていると、田沼先生は、その張りきった豊かな頬《ほお》をほころばせて言った。
「軍人にあのぐらいどなられると、ちょっとこわくなるね。大河は別として、塾生たちには、すいぶん強くひびいただろう。」
「ええ――」
 と、次郎はあいまいに答えたが、すぐ、
「それは、かなりひびいただろうと思います。」
「私の話も、朝倉先生の話も、すっかり嵐《あらし》に吹《ふ》きとばされた形だったが、こんなふうだと、今度の塾生は、いつもとは少し調子がちがうかもしれないね。」
「ええ、それはもう覚悟しています。」
「これからは、この塾の生活も、だんだんむずかしくなって来るだろう。しかし、いい試練だね。われわれにとってはむろんだが、塾生たちにとっても、こうした摩擦《まさつ》は決して無意味ではない。どうせ将来は、もっと大きなスケールで経なければならない試練だからね。」
 次郎は眼をふせて、畳《たたみ》の一点を見つめているきりだった。
「軍人のああした話に、盲目的《もうもくてき》に引きずられるのも険呑《けんのん》だが、感情的に反発《はんぱつ》するのも険呑だ。時代はそんな反発でますます悪くなって行くだろう。あんな話を、相手にしない、――といっては語弊《ごへい》があるが、冷静に批判しながら聞くような国民がもっと多くならないと、日本は助からないよ。」
 次郎はやはり眼をふせたまま、
「ぼく、さっきからそんなようなことを考えていたところなんです。」
「そうか。うむ。」
 と、田沼先生は大きくうなずいたが、
「しかし、理屈《りくつ》ではわかっていても、実際問題となると、またべつだからね。せいぜい自重《じちょう》してくれたまえ。今の日本では、青年たちは、何といったって、軍からの影響《えいきょう》を最も多く受けやすいし、そう簡単にはわれわれのいうことを受け付けないだろう。そんな場合に、あんまりあせって、塾生とにらみあいのような形になっては、友愛塾も台なしだよ。」
 塾生とにらみあう。――そんなことは、次郎がこれまで夢《ゆめ》にも考えたことのないことだった。しかし、幼年時代からの闘争心《とうそうしん》が、今でも折にふれて鼬《いたち》のように顔をのぞかせる自分を省《かえり》みると、今度の場合、それが全く起こり得ないことでもないような気がして胸苦しかった。
「ぼく、先生にご心配をかけないように、気をつけます。」
 かれは、やっとそれだけいって、田沼先生の顔を見た。田沼先生もかれの顔をみつめて、かるくうなずいたが、その眼は、仏《ほとけ》の眼のように静かであたたかだった。
「もう時間だね。」
 と、先生は腕時計《うでどけい》を見て立ちあがりながら、
「しかし、今度のような時に、大河のような塾生をむかえたのは、非常にしあわせだったね。多分大河はいい緩衝地帯《かんしょうちたい》になってくれるよ。はっはっはっ。」
 次郎は笑わなかった。そして、田沼先生のあとについて広間を出ると、すぐ板木《ばんぎ》を鳴らしたが、その眼は何かを一心に考えつめているかのようであった。
 午後の行事は、これまでの例を破ってごくあっさりしていた。朝倉先生は、塾生たちが広間に集まると、簡単に「探検」の主旨《しゅし》を説明しただけで、さっそくそれにとりかからせた。また「探検」がすんでもう一度広間に集まった時にも、つぎのようなことをいっただけで、すぐ解散した。
「今日式場で、田沼先生なり私なりから話したこの塾の根本の精神と、たゞ今諸君が実際に見て来た探検の結果とを土台にして、これからのお互《たが》いの共同生活をどう組立てて行くか、それを今から相談したいと思うが、しかし、これだけの人数が、まだめいめいの頭を整理しないうちに、いきなり一堂に集まって相談しあってみたところで、大した収穫《しゅうかく》は得られないだろうと思う。で、ひとまずこの集まりは解散して、各室ごとに集まって、その下相談をすることにしたい。むろん、その下相談にしたところで、急にはまとまらないかもしれない。しかし、まとまらなければまとまらないでも結構だ。それで一人一人の頭に何程《なにほど》かの準備ができればいいのだから。……そのつもりで、ともかくも、いちおう各室ごとに、小人数で意見をたたかわしておいてもらいたい。そして、夕食後にはもう一度ここに集まって、みんなでじっくり話しあうことにしよう。その時には、私も私の考えを十分のべて見たいと思っているが、それはむろん一つの参考意見であって、決してそれを君らに押しつけるのではない。もっとも、あらかじめこれだけは断わっておきたい。それは、毎日朝食から中食《ちゅうじき》までの時間は講義にあててあるということだ。これには外来の講師の都合もあるので、時間を勝手に動かすわけには行かない。それ以外の時間は、みんなの合意によってどうにでも使えるし、なるだけお互いの創意を生かしたいと思う。要するに、ここの生活の根本になるものは、あくまでも友愛と創造
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