生がはいって来るまえに、その名前と経歴とをすっかり覚えこんでおこうとする、いつものかれの習慣が、そうさせたのである。しかし、かれの眼にうつったのは、塾生の名前や経歴ではなくて、やはり荒田老の顔であり、道江の顔であった。
かれは名簿をなげすて、もう一度ふかい息をして、床の間のほうに眼を転じたが、そこには、「平常心」と大書《たいしょ》した掛軸《かけじく》が、全く別の世界のもののように、しずかに明るくたれていた。
三 大河無門・平木中佐
昼近くになっても、次郎は広間を出なかった。陽《ひ》を背にして窓によりかかったままぼんやり塾生名簿《じゅくせいめいぼ》を見たり、眼《め》をつぶったり、床《とこ》の間《ま》の掛軸をながめたりして、落ちつかない気持ちを始末しかねていたのである。
「あら、次郎さん、朝からずっとこちらにいらしたの?」
和服の上に割烹着《かっぽうぎ》をひっかけた朝倉夫人が廊下の窓から顔をのぞかせ、不審《ふしん》そうにそう言ったが、
「ご飯はこちらでいただきましょうね。そのほうがあたたかくってよさそうだわ。じゃあ、すぐはこびますから、先生をお呼びして来てちょうだい。」
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