で、ほんとうの人情だとはいえないわけである。――
「そこで、まず第一に私が諸君にお願いしたいのは、このほんとうの人情、だれもがまちがいなくめいめいの胸に抱《いだ》いているこの人情を存分に生かしあいたいということである。宗教・道徳・哲学《てつがく》などの理論を持ち出してやかましいことをいえば、いろいろいうこともあるだろうが、愉快になりたいのがおたがいの偽《いつわ》らない人情であり、そしてそのためにおたがいに仲よく暮らしたいというのも人情であるならば、ひとまずやかましい理屈《りくつ》はぬきにして、その人情を生かしあうことに、ここの共同生活の出発点を定めてもいいのではあるまいかと思う。」
次郎は、これまで、いくたびとなく朝倉先生の話をきいて来たが、今日の表現は全く新しいと思った。塾生を「絶海の孤島の漂流者」に見たてたのもはじめてのことだったし、だれにも納得《なっとく》のいく「人情」に出発して塾の生活を説明しようとしたのも、これまでに例のないことだったのである。かれは先生の言葉にきき入って、いつの間にか荒田老の顔から眼をそらしていた。
先生は、その澄んだ眼をとじたり開いたりしながら、考え考
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