っているんでしょう。はっはっはっ。……ええ。……ええ。……ちょっとむきになるところがありますが、ご心配になるほどのこともありますまい。……ええ、むろん私からも十分注意はしておきます。……はい、では、お待ちしています。」
電話がすむと、次郎は、すぐ自分から塾長室にはいって行って、たずねた。
「田沼先生は何かおさしつかえではありませんか。」
「いいや、まもなくお見えになるだろう。」
朝倉先生は、何でもないように答えたあと、次郎の顔を見て微笑《びしょう》しながら、
「今日は、変わった来賓《らいひん》が見えるらしいよ。」
「荒田さん……じゃありませんか。」
「荒田さんもだが、陸軍省からだれか見えるらしい。」
次郎は、はっとしたように眼を見張り、しばらくおしだまって突《つ》っ立っていたが、
「田沼先生から案内されたんですか。」
と、いかにも腑《ふ》におちないというような顔をしてたずねた。
「いや、そうではないらしい。荒田さんから、今朝急に、そんな電話が田沼先生のほうにかかって来たらしいんだ。」
次郎はまただまりこんだ。朝倉先生は、わざと次郎から眼をそらしながら、
「それで、今日の来賓祝辞だが、時間の都合では、その陸軍省の方だけにお願いすることになるかもしれないから、そのつもりでいてくれたまえ。」
「軍人に祝辞をやらせるんですか。」
次郎はもうかなり興奮していた。
「礼儀《れいぎ》として、私のほうからお願いすべきだろうね。」
「しかし塾の方針と矛盾《むじゅん》するようなことを言うんじゃありませんか。」
「自然そういうことになるかもしれない。しかし、それはしかたがないだろう。」
「先生!」
と、次郎は一歩朝倉先生のほうに乗り出して、
「先生は、自然そういうことになるかもしれないなんて、のんきなことをおっしゃいますが、ぼくは、それぐらいのことではすまないと思うんです。」
「どうして?」
「これは計画的でしょう。」
「計画的?」
「ええ、荒田さんの卑劣《ひれつ》な計画にちがいないんです。荒田さんは、軍の名で塾の指導精神をぶちこわそうとしているんです。」
次郎の顔は青ざめていた。朝倉先生は、きびしい眼をして次郎を見つめていたが、
「そんな軽率《けいそつ》なことは言うものではない。」
と、いきなり、こぶしで卓をたたいて、叱《しか》りつけた。しかし、次郎はひるまなかった。
「軽率ではありません。これはまちがいのないことです。ぼくは断言します。」
「かりにまちがいのないことだとしても、そんなことを言って、何の役にたつんだ。」
「ぼくは、祝辞をやらせるのは絶対にいけないと思うんです。それをやめていただきたいんです。」
「それは不可能だ。」
「こちらからお願いさえしなけりゃあ、いいんでしょう。」
「そういうわけにはいかないよ。陸軍省からわざわざやって来るのに、知らん顔はできない。それではかえって悪い結果になるんだ。」
「すると、おめおめと降伏《こうふく》するんですか。」
朝倉先生の眼は、いよいよきびしく光り、しばらく沈黙《ちんもく》がつづいた。しかし、そのあと、先生の唇《くちびる》をもれた言葉の調子は、気味わるいほど平静だった。
「本田は、友愛塾の精神が、だれかの祝辞ぐらいで、わけなくくずれてしまうような、そんな弱いものだと思っているのかね。」
先生の眼には次第《しだい》に微笑さえ浮《う》かんで来た。次郎はこれまでの勢いに似ず、すっかり返事にまごついた。
すると、先生は、今度は、次郎をふるえあがらせるほどの激《はげ》しい調子で、
「血迷ったことを言うのも、たいていにしたらどうだ。聞き苦しい。」
次郎は、これまで、朝倉先生に、こんなふうな叱り方をされた記憶《きおく》がまるでなかった。かれは、ながい間の先生との人間的つながりが、それで断絶でもしたかのような気になり、思わず、がくりと首をたれた。
朝倉先生は、しかし、すぐまた平静な調子にかえって、
「いつも言うとおり、今は日本中が病気なんだから、友愛塾だけがその脅威《きょうい》から安全でありうる道理がないんだ。病菌《びょうきん》はこれからいくらでもはいって来るだろう。いや、これまでだって、すいぶんはいって来ていたんだ、塾生自身が、ほとんど一人残らず、病菌の保有者だと言ってもいいんだからね。今日は、病菌がすこし大がかりに持ちこまれるというにすぎないんだ。むろん、大がかりな病菌の持ち込みは、できれば拒絶《きょぜつ》するにこしたことはない。しかし、拒絶どころか、表面だけでもいちおうはありがたく頂戴《ちょうだい》しなければならないところに、実は、現在の日本の最大の病根があるんだよ。だから、おたがいとしては、病菌はこれからいくらでもはいって来るものだと覚悟《かくご》して、その覚悟のもとに、病菌を
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