です。」
次郎はほうっと深い息をした。それは安堵《あんど》の吐息《といき》ともつかず、これまで以上の深い苦悶《くもん》の吐息ともつかないものだった。
二人はやがて立ちあがって、言い合わしたように富士を仰《あお》いだ。どちらからも口をきかなかった。富士は、三保で見たすらりとした姿とはまるでちがった、重々しい沈黙と孤独の姿を、青空の下に横たえていた。
次郎は、その沈黙と孤独の奥に、自分の恋と自分をとりまく時代とが蛇《へび》のようにもつれあい、すさまじく鳴動《めいどう》して、自分の運命を刻々にゆさぶっているのを、まざまざと感じるのであった。
――――――――――
次郎の生活記録は、こうしていろいろの問題を残したままその第五部を終わることになるが、この記録は、見ようでは、かれの生活記録と言うよりは、むしろ、満州事変後急速に高まりつつあったファッシズムの風潮に対する、一小私塾のささやかな教育的|抵抗《ていこう》の記録であり、その精神の解明である、と言ったほうが適当であるのかもしれない。少なくとも、その叙述《じょじゅつ》の半ばに近い部分がそれに費されていることは、否《いな》みがたいことのように思える。しかし、この私塾での三年あまりの次郎の生活が、道江の問題とからんで、かれの人間形成に及《およ》ぼした影響《えいきょう》は決して小さなものではなかったし、また、それがかれのこれからの生活に対して、よかれあしかれ、重大な意義を持つであろうこともたしかである。その点から言って、この一篇《いっぺん》は、全体として、やはり次郎の生活記録であるにはちがいないのである。
実をいうと、かれの生活記録としては、この記録のほかに、もっとたしかな記録があることを私は知っている。それは次郎自身の日記である。もし、それをそのままここに収録することができれば、この記録の大部分は無用になったかもしれないが、次郎の現在の気持ちとしては、おそらくその公表を欲していないであろう。で、今は、この記録の不備を補《おぎな》う意味で、わずかにその数節を読者に提供することだけで満足したい。左に抜《ぬ》き書《が》きしたのは、かれがいよいよ朝倉先生夫妻とともに空林庵《くうりんあん》を引きあげることになった前日あたりに書かれたものらしいが、そのころの、明るいとも暗いともつかない、かれの心境をうかがうには、いい資料になるだろうと思うのである。
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「ぼくは、中学一年にはいって間もないころ、しみじみと人間の運命というものの不思議さに思い到《いた》ったことがあった。それは、朝倉先生にはじめて接することができた時の喜びの原因を、それからそれへと過去にさかのぼって考えていくうちに、ついに、ぼくがお浜《はま》の家に里子《さとご》にやられたのが、そのそもそもの原因であることに気がついた時であった。ぼくは今またあらためて同じようなことを考えないではいられない。というのは、ぼくが中学を追われたのも、友愛塾の助手になったのも、また、田沼《たぬま》先生の人格にふれ、大河無門という友人を得、全国の青年たちと親しむようになったのも、そしてさらに、悲しみと憤《いきどお》りをもって友愛塾にわかれを告げ、自信のない新しい生活をはじめなければならなくなったのも、すべては朝倉先生とのつながりにその原因があり、もとをただせば、やはり里子ということにその遠因があると思うからである。
道江の問題を考えて見てもやはり同様である。ぼくが道江を知ったのは、大巻《おおまき》との関係からだが、その大巻との関係は、今の母によって結ばれており、今の母がぼくの家に来るようになったのは、正木の祖父がぼくの将来を気づかって父にそれをすすめたからのことであった。そして、ぼくがその当時将来を気づかわれるような子供であったのは、やはり里子ということにその遠因があったのだ。
里子! 何という大きな力だろう。それは現在のぼくのいっさいを決定しているのだ。ぼくの生活理想も、恋愛《れんあい》も。……そしておそらくそれは将来にもながく尾《お》を引くことであろう。いや、あるいはぼくの一生がすでにそれによって決定されてしまっているのかもしれないのだ。
こう考えて来ると、人間の自由というものは一たい何だろう、とぼくは疑わずにはいられない。それは、円の中心から、自分の欲するままに、円周のどこへでも進んでいけるというようなことでは、絶対にない。おそらく、円の中心から円周に向かって、ほとんど重なりあうように接近して引かれた二つの線の間のスペースを、わずかな末広がりを楽しみに進んでいけるというにすぎないのではあるまいか。もしそうだとすると、それは自由というよりも、むしろ運命とよんだほうが適当だとさえ、ぼくには思えるのだ。
だが、ぼくはまた考
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