秘密にすべきことだと思っていた。それを朝倉夫人がどうして大河にもらしたのだろうと、それが不思議でならなかった。大河は、しかし、平気で、
「先生は、これからは、全国|行脚《あんぎゃ》だそうじゃありませんか。いいですね。ぼく、もしお許しが出たら、ついて行きたいと思ってるんです。」
 次郎は、しびれた頭のどこかに急に電気でもかけられたような刺激《しげき》を覚え、眼を見はった。
「本田さんも、むろん、ついて行くんでしょう。」
「ぼく、まだ、そんなこと何も……」
「二人でついて行きましょう。友愛塾の運動は、こんな建物の中でやるより、そのほうがほんとうですよ。ぼく、今度講習をうけてみて、つくづくそう思いました。むろん、それもはじめからじゃ無理かもしれませんが、修了生が五百も全国に散らばっておれば、やり方|次第《しだい》では相当なことができますよ。一回に五十人やそこいらをここに集めてやってるよりか、運動としては、よっぽどそのほうが効果的だと思いますね。」
 次郎は、朝倉先生と三人で、リュックをかついで全国を行脚してあるく姿を心に描《えが》いて、何か楽しい気がしないでもなかった。しかし、かれの眼は、建ってまだ三年とはたたない本館や、空林庵《くうりんあん》を、無念そうに見まわしていた。かれの胸には、幼いころ、自分の通《かよ》っていた村の小学校が新築され、それがかれと乳母《うば》のお浜《はま》を引きはなす原因になり、お浜と二人で最後に旧校舎の屋根を見あげたときの、あの言いようのない寂《さび》しい気持ちが、しみじみとわいていたのだった。かれは何か言いわけでもするように言った。
「しかし、ぼくらがついて歩けば、それだけ費用もかかりますし、勝手には決められないでしょう。」
「それはだいじょうぶです。小母さんのお話では、その費用なら、田沼先生のお力でいくらでも出るところがあるんだそうです。」
 次郎は、このことについて自分とはまだ何一つ話しあっていない朝倉夫人が、すでにそんなことまで大河に話しているのを知って、おどろいた。そのおどろきにはかすかに暗い影《かげ》がさしていた。塾の建物を見まわして幼いころの寂しかった気持をそそられていたかれは、同時に、そのころ覚えた不快な嫉妬心《しっとしん》をも呼びさまされていたのである。それはかれがとうの昔《むかし》にのりこえていたはずの人間としての弱点であった。かれは、その弱点が今もなお心に巣《す》くっているのに気づいて、ぎくりとした。弱点の反省は不快を二重にする。かれは大河から思わず眼をそらして、返事をしなかった。
 すると大河が言った。
「本田さん、小母さんにあまり気をもませないほうがいいですよ。小母さんは今朝から、あなたのことばかり心配して、しじゅう様子を見ておいでですが、ぼく、気の毒に思うんです。」
 次郎ははっとしてまともに大河の顔を見た。大河はにっと笑って、次郎の両肩《りょうかた》に手をかけ、
「実は、ぼくも、あなたの様子が今朝から変だと思って、小母さんにたずねてみたんです。すると小母さんが、何もかも打ちあけて、ぼくにあなたを慰めてくれ、と言ったんですよ。ははは。」
 大河の笑い声はびっくりするほど高かった。次郎はがくりと首をたれた。大河は、すぐ真顔になり、
「友愛塾は、勝つとか負けるとかいうことを考えるところではないんでしょう。ぼく、それがおもしろいと思うんです。くやしがったりしちゃあ、塾の精神が台なしになるじゃありませんか。やっぱり愉快《ゆかい》に行脚《あんぎゃ》しましょうよ。」
 次郎はいきなり大河に抱《だ》きついた。そしてむせぶように言った。
「ぼく、助かりました。……これから大河さんに、もっといろいろきいてもらいたいことがあるんです。旅行に出たら、すっかり話します。」
 この時、塾長室の窓から、二人の様子をじっと見まもっていた四つの眼があった。それはむろん朝倉先生夫妻の眼だった。次郎も大河も、しかし、それにはまるで気がついていなかった。
 その後、旅行までの二日間は、べつに変わったこともなくすぎた。入塾志願取り消しの電報は、その間にもさらに幾通《いくつう》かとどいたが、次郎はもうそれを大して気にはしなかった。むしろそれよりも、旅行前夜まで取り消しの通知が来なかった幾人かの志願者に対して、こちらから、事情により当分休塾するという意味の、きわめて事務的な通知を発送しなければならなくなったことが、かれの気持ちを割りきれないものにしていたのだった。
 いよいよ旅行の日が来た。全員――といっても朝倉夫人だけはいつも留守番役だった――が門を出たのは、まだ夜が明けはなれないころだった。旅行中のいろんな役割は万遍《まんべん》なく塾生全部にふりわけられていた。出発から帰塾まで、全く役割なしですませる塾生は一人もなかっ
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