とだろう。田沼先生という方はそういう方なんだ。蓆旗《むしろばた》を押したてて青年をけしかけるような運動は、血をもって血を洗うにすぎない、というのが先生の信念でね。」
 次郎は、田沼先生が、二月二十六日の事変後に組織された内閣《ないかく》に入閣の交渉《こうしょう》をうけたのを、即座《そくざ》に拒絶《きょぜつ》した、という新聞記事を見たのをふと思いおこした。それと今の話との間には、直接には何の結びつきもなかったが、信念の人としての田沼先生の人柄《ひとがら》が、それでいよいよはっきりするように思えたのである。
「とにかく、田沼先生も、友愛塾をつづけて行くことはもう断念しておいでだ。君としては、一生をかけた仕事が、わすか十回でおしまいになるのは残念だろうが、考えようでは、仕事がいっそう地についた、大きいものになったともいえる。気をおとさないようにしてくれたまえ。」
 朝倉先生がしんみりとなって言った。次郎はもう何も言うことができなかった。かれは泣きたい気持ちだったが、やっと気をとりなおして、
「すると、先生はこれからどうなさるんです。」
「全国|行脚《あんぎゃ》だね。」
「講演をしておまわりですか。」
「講演はしない。したいと思っても、おそらくどこでもさせてはくれないだろう。まあ、せいぜい、ここの修了生を中心に、同志の座談会をひらくぐらいなものだね。それも、できるだけ目だたない方法でやらなくてはなるまい。何だか一種の秘密結社みたようになるかもしれないが、しかたがない。しかし、辛抱《しんぼう》づよくつづけていけば、将来の国民生活の底力《そこぢから》にはなるよ。目だたない底力にね。」
 次郎は雲をつかむようで心ぼそい気がした。五百名の修了生があると言っても、それは全国に散らばれば無にひとしい勢力である。それに、そのなかの何人が、そうした運動に真剣《しんけん》に協力してくれるか、それも心もとない。これは朝倉先生の自己|慰安《いあん》にすぎないのではないか、とも思った。
「不賛成かね。」
 朝倉先生は、次郎の気持ちを見透《みすか》すように、微笑《びしょう》しながら言った。
「ええ――」
 と、次郎がなま返事をすると、朝倉先生はその澄《す》んだ眼を射るように光らせながら、
「君は、一粒《ひとつぶ》の種をまく、という言葉を知っているだろう。ほんとうの仕事はその一粒からはじまるものなんだよ。ついこないだ読んだ本の中にあったことだが、レドレーとかいう宣教師が中国の西の果てのある土地にはいりこんで、二十年間宣教をしたが一人の信者も得られなかった。ところが、その翌年になってやっと一人の信者ができると、そのあとは年々加速度的にふえていって、今ではその地方の住民がほとんど全部キリスト教徒になってしまっているということだ。私も及《およ》ばずながら、それに学びたいと思っている。実は、白状すると、私もこの話を知るまでは、なかなか決心がつかなかったがね。」
 廊下《ろうか》が急にさわがしくなった。講義が中休みになったらしい。やがて小川先生がのっそりはいって来て次郎の横に腰《こし》をおろし、その鈍重《どんじゅう》な眼で、じっとかれの顔を見つめた。次郎はあわてたように立ちあがって、茶を入れはじめた。すると朝倉先生が言った。
「本田君がなかなか納得《なっとく》してくれないので、弱っているところです。」
「そうでしょう。私もまだ納得がいきません。」
 小川先生は、ぶすりとこたえて、履歴書のたばを自分のほうにひきよせ、
「ほう、こんなに志願者があったんですか」
 次郎は、入れかけていた茶をそのままにして、いきなり両手で顔をおさえ、逃《に》げるように室を出て行ってしまった。
 その日は、次郎にとって、友愛塾はじまって以来の暗い、うつろな日だった。恋《こい》のみか、生命をかけた仕事までが根こそぎになったという意識が、かれの心から考える力をも感ずる力をも完全に奪《うば》ってしまったかのようであった。かれはもう朝倉夫人に慰《なぐさ》めを求めたいという気持ちさえ失ってしまっていた。そのくせ、一ところにじっとしてはいなかった。つぎからつぎに、こざこざした仕事を求めて塾内をあるきまわった。そして、ながい間の習慣に従って、まちがいなく、それらを果たしていった。ちょうど正確な機械ででもあるかのように。
 夕方、べつにする仕事も見つからなくて、寒い塾庭を一人でぶらついていると、大河無門がうしろからかれの肩《かた》をたたいて言った。
「本田さん、ぼくもききましたよ。」
 次郎が虚脱《きょだつ》した眼でかれの顔を見つめていると、
「塾は今度きりで閉鎖《へいさ》になるんですってね。」
「ええ、どうしてわかったんです。」
「小母《おば》さんにききました。」
 次郎は塾が閉鎖になることは、塾生たちにはまだ
前へ 次へ
全109ページ中103ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング