……まあ昔《むかし》でいえば、道場やぶりというところだろうね。」
次郎は、そんなことを平気で言う朝倉先生が、ふしぎでならなかった。まさか先生が、時代の重圧に負けてやけくそになるわけがない。そうは思うが、やはり何となく不安である。かれはだまって先生の顔を見つめた。すると先生は、その澄《す》んだ眼をぱちぱちさせながら、
「道場やぶりがこわいかね。」
次郎はめんくらった。同時に闘志《とうし》に似たものがかれの心にうごめいた。
「そんなことないんです。」
と、かれはおこったように答え、きっと口をむすんだ。
「こわくなけりゃあ、そうむきになって拒絶《きょぜつ》することもないだろう。受けて立つという法もある。もしこういう機会に少しでもこちらの理想を相手の心に植えつけることができれば、むしろ一歩の前進だ。しかし、それにはけちくさい闘志を燃やしてはいけない。ただこちらのふだんの生活のすがたをくずさないようにすれば、それでいいのだ。人間は、結局、一番自然で、一番合理的な生活に心をひかれるものなんだから、君らがそれをくずしさえしなければ、いつかは必ず相手の心に響《ひび》く時があるだろう。それでいいんじゃないかな。どうだい、大河君。」
「ええ、結構だと思います。」
それまで眼をつぶって二人の話をきいていた大河は、無造作にそうこたえると、またすぐ眼をつぶった。
「本田君も、いいねえ。」
「ええ、わかりました。」
次郎の意識の中には、やにわに大河の存在が大きく浮《う》かんでいた。かれは朝倉先生に説き伏《ふ》せられたというよりは、大河の無造作な答えに説き伏せられたといったほうが適当であった。
「じゃあ、プログラムを二人で相談して組んでみてくれたまえ。こまかなことはどうでもいいんだ。どうせみんなにも相談してきめることなんだから、こまかなことは、その折にきめることにして、動かせない大筋《おおすじ》だけを考えておいてもらいたいね。かんじんなのは、ここの生活の空気をこわさないことだよ。できればお客さんをこちらの空気にまきこんでしまいたいのだが、そこまではちょっとむずかしいな。とにかく、そこいらがうまくいきさえすれば、あとは、どうでもいいんだ。」
「大変ね。」
と、その時、火鉢《ひばち》のはたでみんなのためにコーヒーをいれていた朝倉夫人が言った。
「でも、お二人でお考えくだされば、きっといいプログラムがおできになりますわ。」
それから、何か思い入ったように、
「あたし、その日は、お役にたつことでしたら、どんなことでもいたしたいと思っていますの。」
次郎はそのしみじみとした調子が変に気になりながら、コーヒーをすすった。
大河と次郎とは、それから間もなく本館にかえり、さっそくプログラムをねりはじめた。次郎が大河と二人きりでながい時間話すのは、しばらくぶりだった。かれの気持ちは変に落ちつかなかった。威圧《いあつ》されるような気持ちと、よりかかりたいような気持ちとがたえず交錯《こうさく》していたのである。しかし、一方では、かれのこのごろの暗い混迷した気持ちが、新しい問題を投げかけられたせいもあって、少しずつうすらいでいくかのようであった。
プログラムを組むのに、二人が最も重要だと思ったのは、意見交換の時間をできるだけながくするように、という先方の申し入れに、どう応ずるかということであった。先方の肚《はら》が、それによって激論《げきろん》をまきおこし、日本精神とか時局とかの名において、こちらを窮地《きゅうち》に追いこみ、あわよくば重大な失言をさせようとしていることは明らかであった。その手に乗ってはならない。かといって、その申し入れを無視するわけにも行かない。そこに二人の苦心があったのである。だが、これは大河の提案によってあんがい簡単に片づいた。それは八つの室に分散して地方別の懇談会《こんだんかい》を開き、それにできるだけ多くの時間を費すことであった。大河は言った。
「小人数にわかれると肩肘《かたひじ》張った演説もできまいし、それに地方別ということが、自然話題を地についたものにするだろうと思います。そうなると、こちらの生活のほんとうの意味が、先方の人たちにもいくらか納得《なっとく》してもらえるかもしれません。」
このことがきまると、あとはわけはなかった。二人は中食前にだいたいの案を朝倉先生に報告することができた。朝倉先生は一通り案に目を通すと、笑いながら言った。
「地方別懇談会とはうまく考えたね。先方では裏をかかれたと思うかもしれないが、文句をつけるわけにはいくまい。まあ、名案としておこう。」
それから、しばらく何か考えていたが、
「しかし、こういう細工をやるのは、あまり愉快《ゆかい》なことではないね。」
その日、塾生たちが外出から帰って来て夕食をす
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