、お力をおかしください。私は何もめんどうなことをお願いするつもりはありません。ただその方のお名前とお所を知るだけで結構です。次郎さんなら、あるいはもう何もかもご存じでしょうとも思いますが、もしそうでしたら、すぐにもご返事をください。もしまだご存じなければ、恭一さんにおたずねになるなり何なりして、できるだけ早くお知らせください。私から直接恭一さんにおたずねしたらいいではないか、とお考えになるかもしれませんが、それは、今のところ私にはとてもできないことなのです。私がこの後恭一さんにお手紙を差しあげるのは、私を思っていてくださるというお友だちの方に、すっかり私のことを思いきっていただいたあとのことにいたしたいと存じております。このこともお心にとめていただいて、ぜひ今度だけはご返事をお願いいたします。自分のことだけを書きつらねて、ほんとに相すみませんでした。今の私の気持ちをお察しくだすって、どうかお許しください。」
それで手紙は一たん終わったが、宛名《あてな》のあとにさらにつぎの三行ほどが書きそえてあった。
「東京には大変なさわぎが起こっているそうですが、朝倉先生をはじめ皆《みな》さんさぞご心配あそばしていることでしょう。恥ずかしいことですが、私には、それさえ今はよそごとのような気がしてなりません。お笑いくださいませ。」
次郎は読み終わったあと、しばらくは化石したようにすわっていた。胸の中には、熱いとも冷たいともしれないものが、激《はげ》しい渦《うず》を巻いてその突破口《とっぱこう》を求めていた。
(何という醜《みにく》い一途《いちず》な執念深《しゅうねんぶか》さだろう。そして、何という落ちつきはらった我ままな要求だろう。愛情の対象として完全に自分を無視しておきながら、道江は一たいどんな返事を自分に期待しようというのだ。)
そう思うと、かれはにえるような怒りを感じた。
しかし、道江の執念を醜いと思う心は、すぐかれ自身にもはねかえってきた。
(道江に何の罪がある。道江はただ自分を信じてすべてを自分に訴えているだけなのだ。それを醜いと思う心こそ、何にもまして醜い心ではないか。我執《がしゅう》と自負と虚偽《きょぎ》とのわな[#「わな」に傍点]にかかって身もだえしている嫉妬心の亡者《もうじゃ》、それ以外に今の自分に何が残されているというのだ。)
憎悪《ぞうお》と自責とが恋情《れんじょう》の燈火《とうか》のまわりをぐるぐると回転した。それは際限のない回転だった。
いっそうかれをみじめにしたのは、道江の手紙が、かれに返事をせき立てていることだった。今度という今度は、これまでのように、まるで返事を出さないでおくというわけにはいかない。もし自分がそういう態度に出たら、道江は自分を人間だとは思わないだろう。それは次郎としてたえがたいことだった。だが、真実を書いた場合の結果を思うと、それは身ぶるいするように恐《おそ》ろしいことだった。それは自分の自尊心を台なしにして、道江をいっそう深い苦悩に追いこむだけのことではないか。――残された道はうその返事を書くことだが、では一たいどんなうそを書けばいいのか。第一、そんなことに心を苦しめて、それにいったい何の意味があるというのだ。
かれは迷いに迷った。そしてこの迷いにも際限がなかった。
とうとうその日は決心がつかないままに暮《く》れた。かれはうつろな心で塾の行事を終わり、解決を翌日にのばして、冷たい床《とこ》にはいった。眠《ねむ》られない一夜だった。混迷《こんめい》はやはり翌日もつづいた。また夜が来た。こうして二日とたち三日とたつうちに、かれはもうそのことを考えることさえいやになってきた。そして事実は、結局、返事を書かない決心をしたのと同じ結果になり、それがいよいよかれの気持ちを不安にし、かれを陰気《いんき》な沈黙に誘《さそ》いこんでいったのである。
道江の手紙を受け取って以来、次郎の関心が、事変後の国情とか、塾の運命とかいうようなことからいくぶん遠ざかっていたことは、いうまでもない。かれはおりおり自分でそのことに気がついて、ぎくりとした。一女性の問題に心を奪《うば》われて公《おおや》けの問題を忘れることは、かれにとっては、人間としての良心の問題であり、少なくとも自尊心の問題だったのである。そしてこの反省は、大河無門の顔がかれの視界にあらわれる時に、とりわけきびしかった。そのために、かれはこのごろいよいよ大河がおそろしくなってきたのだった。
さて、二月二十六日の事件が始まって十日近くもたつと、新聞の記事もそろそろ平常に復し、友愛塾では、しばらくぶりで日曜らしい日曜を迎《むか》えることになった。その日は天気もよかったので、塾生たちは朝食をすますと、先を争うようにして外出した。事変のあった現場を見た
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