郎は大河ほど雄弁《ゆうべん》な口はきかなかった。かれはむしろ沈黙《ちんもく》がちであり、ごくまれに断片的《だんぺんてき》な意見を発表するにすぎなかった。しかし、かれの明敏《めいびん》さと誠実さから出る言葉は、田川大作のような激情家や、飯島好造のような機会主義者の言葉とはいい対照をなしており、それが他の塾生たちの心の動きに及ぼした効果は、決して小さいものではなかった。
 こうして、この晩の研究会は、いつもにない波瀾《はらん》を見せたとはいえ、一二のすぐれた塾生の協力によって、ともかくも友愛塾らしい結論を生み出すことに成功して、最後の幕をとじた。さすがの田川大作も、大河無門の気魄がぐいぐいと全体の空気を支配して行く力には勝てず、とうとう「そうかなあ」という嘆息《たんそく》に似た言葉を最後にもらして、旗をまいたのである。
 ただふしぎだったのは、次郎の態度だった。かれは、はじめから終わりまで一言も口をきかなかったが、そうしたことは、これまでに全く例のないことだった。研究会の場合、とりわけその研究題目が青年団に関したものである場合、かれはもう朝倉先生とともに指導的立場に立ってものをいう資格があったし、また、これまでは、自分でも十分な自信をもって、論議を戦わして来ていたのである。そのかれが今度のような大事な場合にかぎって沈黙を守ったということには、何か大きな理由がなければならなかった。
 いったい人間というものは、自分とあまり年齢《ねんれい》の差のない人たちの間に、自分の及びもつかないほどすぐれた人物を発見すると、とかく自信を失いがちなものであり、そして、その危険は、これまで自分の持っていた自信の大きさに比例して大きくなるものだが、万一にも、その自信が何か他の事情によって多少でも傷つけられている場合であると、それはほとんど絶対的だとさえ言えるのである。次郎は、少年時代からの苦闘《くとう》によって、自分の人間としての価値にすでにかなりの自信をもっていた。ことに郷里の中学を退き、道江《みちえ》への愛情を断《た》ちきって、友愛塾の生活に専念するようになってからは、心ひそかに自分を朝倉先生の後継者《こうけいしゃ》にさえなぞらえていたのである。だが、かれのそうした自信も、一方では荒田老という怪奇《かいき》な人物の出現によって、他の一方では道江の上京の通知によって、ゆずぶられはじめていた。そしてそこに現われたのが、大河無門という、すばらしい人物だったのである。
 かれは大河との初対面から、すでにある程度のひけ目を感じていたが、それは塾生活の進展とともに、いよいよ深まるばかりであった。それに拍車《はくしゃ》をかけたのが、道江の来訪と、それにつづく恭一との手紙のやりとりの間に感じた心の動揺《どうよう》であった。そして最後に、東京の異変がおとずれたが、この異変をめぐっての、かれ自身の態度と大河の態度との、あまりにも大きなちがいに気がついたとき、かれはこれまでの自信をほとんど完全に打ちくだかれてしまったのである。
 これが、おそらく、その晩の研究会で、かれが沈黙に終始した大きな理由であったにちがいないのである。

   一一 混迷《こんめい》

 翌日から塾生《じゅくせい》たちは、毎朝、ラジオと新聞の大きな活字によって、あらためて大きな興奮にまきこまれた。ラジオは事務室に備えつけてあり、ふだんはゆっくり聞く時間がないので、めったにスウィッチを入れたこともなかったが、事変以来は、きまった行事の時間でないかぎり、ほとんどかけっぱなしの有様だった。
 何といっても、最も刺激的《しげきてき》だったのは、重臣暗殺の報道だった。とりわけ斎藤実《さいとうまこと》、高橋是清《たかはしこれきよ》といったような、ながく国民に敬愛されていた人たちの遭難《そうなん》の詳報《しょうほう》は、田川大作のような右翼的《うよくてき》傾向《けいこう》の強い塾生たちにも、さすがに悲痛な気持ちをもって迎《むか》えられたらしかった。ほとんど確実に死んだと見られていた岡田首相の生存の報が、この塾堂につたわったのは、もういくぶん刺激に慣れて来た三十日の朝だったが、それがあまりにも意想外であったために、一種のユーモアをまじえた好奇心《こうきしん》をもって迎えられた。
 新聞にせよ、ラジオにせよ、その報道の中に、たえす塾生たちを困惑《こんわく》させた一事があった、それは「蹶起《けっき》部隊」とか、「行動部隊」とか、あるいは「占拠《せんきょ》部隊」とかいう言葉が使用され、三日目になって、やっと「騒擾《そうじょう》」という言葉が使用されたが、それもはっきり「叛乱《はんらん》」を意味するものとは思えないことであった。このことは、塾生たちの間に、しばしば先夜の研究会の論議をむしかえさせる種になり、また朝倉先生に
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