しかし、だからといって、そのために、今度のような事件が起こるのもやむを得ないなどとは、なおさら思わない。日本には、憲法というものがあるからね。」
「ぼくは、政党がこんなに堕落《だらく》していては、議会政治なんかだめだと思うんです。」
「なるほど。」
と、田沼先生はまじめにうけて、
「どうです、朝倉先生、今の意見は日本が憲法政冶を否定するかどうかという大問題をふくんでいるようですが、あとでじっくり時間をかけて話しあってみられては?」
「ええ、そういたしましょう。」
と、朝倉先生もまじめにこたえ、次郎のほうを向いて、
「今夜の研究会の問題は何だったかね。」
「青年団と政治ということになっています。」
「じゃあ、ちょうどいい。今夜は、今度の事件を中心に、いま、田川君が言ったような問題をまず論じあって、それから、青年団と政治の問題にはいることにしよう。……どうだい、研究部のほうは、それでいいね。」
「結構です。」
答えたのは青山敬太郎だった。今週は第三室が研究部を受け持っていたのである。
みんなの興奮した感情は、しかし、事件についての論議を夜までのばす気持ちにはなれなかったらしく、あちらこちらで不服らしい私語がはじまった。すると、飯島好造が心得顔にいった。
「読書会を夜にして、このまま話をつづけたらどうでしょう。夜になると、田沼先生も小川先生も、いらっしゃらないでしょう。こんな話は、やはり両先生にもきいていただくほうがいいと思うんです。」
「私は、そうゆっくりはしておれない。」
と、田沼先生は腕時計を見ながら、
「それに読書会は読書会で、あたりまえにやるほうがいい。何もあわてることなんかないんだからね。やはり、朝倉先生がいつもいわれるように、大事なのは平常心だよ。それをなくしちゃあ、伺を話しあってみても、いい結論が生まれるわけがない。」
そのとき、事務室から、けたたましい電話のベルの音がきこえて来た。次郎は、はじかれたように座を立って行ったが、すぐもどって来て、かなり興奮した調子で、田沼先生に言った。
「荒田《あらた》さんからです。急に先生にお目にかかりたいんですって、ご自分でこちらに来てもいいといわれますが、どうご返事しましょう。」
「そうか。」
と、田沼先生はちょっと首をかしげたが、
「私、電話に出てみよう。」
田沼先生が広間を出て行くと、みんなは申しあわせたように黙《だま》りこんで耳をすました。先生の電話の声がはっきりきこえるわけではむろんなかったが、そうしないではいられない気持ちだったのである。
間もなく田沼先生は広間の入り口までもどって来て、
「じゃあ、私、いそぎますから、これで失礼します。」
朝倉先生が立とうとすると、
「私にかまわず読書会を始めてください。予定を狂《くる》わしてすみませんでした。」
それから、塾生たちみんなに軽く会釈《えしゃく》したあと、急いで。玄関《げんかん》のほうに去った。
見おくりには、朝倉夫人と小川先生とが立って行き、あとは読書会のいつもの顔ぶれだけになった。
読書会では、テキストのページを追って輪読《りんどく》する場合もあったが、「二宮翁夜話」の取り扱《あつか》いはそうではなかった。あらかじめ、めいめいのひまな時間にその幾節《いくせつ》かを読んでおき、その中から、心にふれたとか、疑義があるとかいうような節をだれからでも発表して、それについて相互《そうご》に意見を述べあうといったやり方であった。このやり方は、実は次郎の提案によるもので、それが「二宮翁夜話」の場合、特に適切であったせいか、毎回非常な成功をおさめ、塾生たちのそれを読む態度もそのために次第《しだい》に真剣味をまして来ていたのであった。
ところが、今日はかなり様子がちがっていた。いつもだと、朝倉先生が、「では、だれからでも……」と口をきると、先を争うようにして幾人《いくにん》かの塾生が手をあげるのだったが、今日は、それどころか、かんじんの「夜話」をひらきもしないで、ひそひそと私語をつづけているものが多かった。それに、第一、次郎自身の様子がおかしかった。かれは私語こそしなかったが、その眼は廊下《ろうか》の硝子戸《ガラスど》をとおして、食い入るように玄関のほうを見つめていた。玄関では、田沼先生が小川先生と朝倉夫人とを相手に、まだ立ち話をつづけていたのである。
朝倉先生は、しかし、みんなのそんな様子を見ても、べつに注意をうながすのでもなく、その澄《す》んだ眼に微笑をうかべて、しずかに待っていた。
すると、大河無門がだしぬけに言った。
「巻の一の第二十八節をぼくに読ませてもらいます。」
その声は、例の落ち葉をふむような低い声だったが、みんなの私語をぴたりととめた。だれよりもぎくりとしたのは次郎だった。次郎にとって
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