いて、ふだんのとおりの生活を、おちついてやって行くんです。」
「おちつくのはいい。しかしこれほどの事件を無視するわけには行かんだろう。われわれが無視しようとしても、いずれどういう形でか新聞にも出るだろうし、塾生たちが問題にしないではおかないよ。その時、君はどうする? にげるかね。」
次郎は返事ができなくて、顔をあからめた。すると、今度は田沼先生が微笑しながら、
「無視するとはうまく考えたな。いかにも本田君らしい。しかし、それは一種の小細工《こざいく》だ。そういう小細工はやらないほうがいい。やはり塾生を愛することだよ。塾生の良心をね。その愛さえあれは、塾堂はつぶれても、塾はどこかで生きる。塾長、そうでしょう。」
「ええ、そうですとも。」
朝倉先生が答えた時には、次郎はもう椅子《いす》をはなれて棒立ちになっていた。田沼先生の言った「小細工」という言葉が、鋭《するど》い刺《とげ》のようにかれの胸をつきさしていたのである。かれは何か言おうとしたが、言葉が出なかった。
「そう窮屈《きゅうくつ》にならんほうがいい。」
と、田沼先生はにこにこ笑いながら、
「窮屈になるから、やることがつい小細工になるんだよ。君の真剣《しんけん》なのはいいが、人間は大事な時ほど大らかでないと、的をはずしてしまうものだ。ちょうど火事の時にくだらんものを持ち出すようなものでね。はっはっはっ。」
次郎は、しかし、笑うどころではなかった。田沼先生のきわめて自然な、的をはずさぬ物ごとの判断が、その深い人間愛から流れ出ているということに気がつけばつくほど、かれは、かれ自身の気持ちが、いよいよ窮屈さと不自然さの中に追いこまれて行くような気がするのだった。
「わかりました。」
かれは、ばかに声に力を入れてそう言ったが、それはほんとうに納得《なっとく》したというよりは、しいて言葉をはげまして、自分の不安をはらいのけているといった調子だった。
ちょうどその時、午後の行事を報ずる板木《ばんぎ》が鳴った。次郎はそれをきくと、逃《に》げるように室をとびだした。
読書会は、広間の畳《たたみ》に、食卓を四角にならべてやることになっていた。塾生たちが「二宮翁夜話《にのみやおうやわ》」を持って席につき終わったころには、三先生ももう顔をならべていた。朝倉夫人は、読書会には、ふだんは手すきの時だけ顔をだすことにしていたが、今日はむろんはじめから、次郎とならんで席についていた。
「今日は、非常に残念なことを、諸君の耳に入れなければならないが――」
と、田沼先生は、いつものにこやかな態度に似ず、いかにも苦しそうに話し出した。言葉はきわめて平凡《へいぼん》で、刺激的《しげきてき》な形容詞など一語も使わなかった。ただ実際に見聞した事実を、それも要点だけ、ごく手短かに話したにすぎなかった。ただ最後に、いくぶん調子をつよめて言った。
「勅命《ちょくめい》なくして兵を動かし、重臣を殺害したということは、明らかに叛乱だ。そういうことが日本にあろうとは、諸君は夢《ゆめ》にも思わなかったにちがいない。しかし残念ながらこれは事実だ。私は、今日は取りあえずその事実だけを諸君の耳に入れておく。いずれこれからは、いろんな報道がつたわるだろうと思うが、その中には、デマもあるだろうし、雑音もまじるだろう。しかし、私が話したことだけは、間違《まちが》いのないことだから、それを基礎《きそ》にして、これからのすべての報道を冷静に判断してもらいたい。」
塾生たちのうけた衝撃《しょうげき》は、むろん大きかった。先生の言葉が、いつもに似ずしぶりがちで、しかも簡単だったのが、かえってかれらに気味わるい感じを与《あた》えたらしかった。次郎は、かれらが眼を光らせ、耳をそばだてて聞いている沈黙《ちんもく》の底に、すさまじく渦《うず》を巻いている感情の嵐《あらし》を明らかに感ずることができた。
話がおわったあと、しばらくは部屋中が凍《こお》ったようにしんとしていた。かなりたって、塾生の一人が、だしぬけに、
「先生!」
と、叫《さけ》んだ。田川大作だった。かれは自分のまえにおいた「二宮翁夜話」をにぎりこぶしで押《お》しつぶすようにしながら言った。
「ぼくたちは、実は、こういうことになりはしないかと、とうから心配していたんです。」
田沼先生は返事をしないで、じっと、田川の顔を見つめたきりだった。すると田川は、
「ぼくは二年近く満州にいたんですが、あちらから見ていると、日本の政治はだらしがなくて、なっていないんです。」
「そういう見方もあるようだね。」
田沼先生が、あっさりそうこたえて、眼を朝倉先生のほうにそらしかけると、田川は追っかけるように、
「先生は、どうお考えですか。」
「私も、日本の政治がこのままでいいとは思っていない。
前へ
次へ
全109ページ中79ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング