うあと二十分しかないが、塾としてこの事件を、どういう態度で取り扱《あつか》って行きましょう。実は、私は、デマがおそろしかったので、私自身の見聞《けんぶん》で、正確なところをみんなに話しておきたいというだけの考えでやって来たんですが、塾長に何かとくべつのお考えがあれば、それもふくんでいて話すほうがいいと思いますが。」
 次郎は息をのんで朝倉先生の答えを待った。朝倉先生は、しかし、あんがい無造作《むぞうさ》にこたえた。
「塾としては、やはり理事長がさっきおっしゃったように、国民全体の責任というような考え方で行くよりほかありませんし、その点を反省させながら、できるだけ落ちついて、これまでどおりの生活をつづけて行きたいと思いますが。」
「結構ですね。」
 と、田沼先生も無造作にうなずいたが、すぐ、
「しかし、だからといって、事件の批判をあいまいにしておきたくはないものですね。」
 朝倉先生は、けげんそうな眼をして田沼先生を見つめた。すると、田沼先生は、ちょっと次郎のほうを見たあと、苦笑しながら、
「批判などというと、大げさにきこえるかもしれませんが、何も軍の内情まであばきたてて、かれこれ言おうというのではありません。そういうことは、この塾ではいっさいふれたくないし、また、ふれる必要もないと思います。しかし、叛乱軍をはっきり叛乱軍と言いきることだけは遠慮《えんりょ》してはなりますまい。それをあいまいにして、事件の全責任をただちに国民全体が負うというようになりますと、まるで筋が通らなくなります。通すべき筋だけははっきり通して、その上で、負うべき責任を全国民が負う、そういったぐあいに指導していただきたいように思いますが……」
「いや、よくわかりました。むろん同感です。国民の責任といったところで、それは要するに、満州事変以来、おっしゃるような筋を通すことに国民が卑怯《ひきょう》だった点にあるんですからね。」
 田沼先生はうなずいて、じっと眼をふせた。そして、しばらく考えていたが、
「しかし、筋を通すには、それだけの覚悟がいりますね。」
 と、今度は朝倉夫人のほうに眼をやり、急に、じょうだんめかして、言った。
「奥《おく》さん、五・一五事件の折りは、大変いやな思いをなすったんですが、もう一度ご苦労をおかけするかもしれませんよ。」
「ええ、ええ。それが必要でしたら。」
 と、夫人も微笑《びしょう》しながら、
「あたくしどもの苦労なんて、苦労のうちにははいりませんわ。どうせ先生のおあとをついてまわるだけですもの。ほほほ。」
 夫人は、しかし、そのあとすぐしんみりして、
「でも、この塾はどうなるんでございましょう。あとにどなたか……」
「それは、あなた方と運命をともにするよりほかありませんね。」
 田沼先生は、きっぱりこたえた。すると、小川先生がどもるような声で、
「理事長、すると、あなたはもう、塾の閉鎖《へいさ》まで決心されているんですか。」
「ええ、最悪の場合は、こちらが決心しなくとも、自然そうなるでしょうし……」
「しかし、それは避《さ》けられないことではないでしょう。」
「むろん、避けられるだけは避けます。無用な摩擦《まさつ》をおこして自分から最悪の事態に落ちこむようなことはしないつもりです。しかし大義名分をみだすようなことにまで、お調子をあわせるわけには行きますまい。」
「軍では、もう、そういうことについて、何かいいだしているんですか。」
「正面きって何もいいだしているわけではありません。しかし、叛乱とか叛軍とかいう言葉は、今のところ絶対|禁物《きんもつ》のようです。それをはっきり口に出したら、それだけで、最悪の事態におちいるかもしれません。今朝の状勢では、そうとしか思えませんでした。今度の場合は、しかし、何としてもそれに妥協《だきょう》するわけには行かないと思います。友愛塾が、そのために犠牲《ぎせい》になっても、いたし方ないでしょう。身を焼いて灰からよみがえるという不死鳥の覚悟をしようじゃありませんか。」
 小川先生は、大きな息をして眼をつぶった。そして眼をつぶったまま、ひとりごとのように言った。
「惜《お》しい、実に惜しい。こういう塾こそ今の時代の良心なんですがね。」
「その良心を守ろうというんです。ははは。」
 と、田沼先生は快活に笑った。
 次郎は小川先生の気持ちにしみじみとした共感を覚えていた。そのせいか、田沼先生の笑い声に腹がたつような気持ちがした。すると、朝倉先生が言った。
「どうだい、本田君、理事長のおっしゃるような覚悟ができたかね。」
 次郎は田沼先生のほうをぬすむように見ながら、
「ぼくは、この塾では、事件を無視することにしたらいいと思っているんです。」
「無視する、というと?」
「いっさい、ふれないんです。ふれないでお
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