ともどりした。しかし、どこにもかれの疑惑を解く鍵《かぎ》は見つからなかった。それどころか、かれはただ親鸞《しんらん》にあざけられるような気がするばかりだったのである。
 火鉢《ひばち》の火は小さくなっていて、さすがに寒さが身にしみた。次郎は、「歎異抄」をばたりと閉じ、それを本立てに立てると、事務室に行って、ストーヴのそばの椅子《いす》に腰《こし》をおろした。事務室には給仕の河瀬もいなかった。
 柱時計《はしらどけい》を見ると、もう十一時を二十分ほどすぎていた。かれは、昼ごろには田沼先生が見えることを思い出し、走って炊事室《すいじしつ》に行き、中食の用意を臨時に一人分だけ加えておくように頼《たの》むと、またすぐ事務室にもどって来た。そして、いきなりストーヴの火をかきまわし、それに、石炭を何ばいもつぎたした。変にめいるような、それでいて何かしないではいられないような気持ちだったのである。
 そこへ、朝倉夫人がはいって来た。ふだんは、美しくひらいた眉根《まゆね》が、引きつるように、よっていた。
「次郎さん、東京は、まあ、大変ですってねえ。」
「ええ、おききでしたか。」
「たった今、塾長室できいて来ましたの。」
「それで、今日は田沼先生がおいでになるそうです。」
「それもうけたまわりましたの。――でも、恭一さん、よく気をきかして早くお知らせくだすったわね。」
「大沢君と二人で、塾のことを心配しているらしいんです。」
 朝倉夫人は何度もうなずいたきり、それには返事をしなかったが、しばらくして、
「五・一五事件の時も私たちいやな思いをしましたけれど、今度はそれどころじゃないらしいわね。でも、世間の人たちは、あのころよりか、かえって目を覚まして来ているんじゃないかしら。」
「そうかもしれません。しかし、それだけに、無理な圧迫《あっぱく》もいっそうひどくなるでしょう。」
「そうね。悪い時代って、そんなものね。」
 と朝倉夫人は、しばらく何か考えていたが、
「でも、おちつきましょうよ。せめて、あたしたちだけでもおちつかないと、これから育つ人たちに申しわけありませんわ。それにながい目で見ると、世の中は、おちついてあたりまえのことをする人の希望どおりに、きっとなっていくものですわ。あたしそう信じるの。」
 次郎は、何か心のなごむような気持ちで、じっと眼をふせていた。心の動揺を感じたあと、夫人と二人きりで話していると、かれはいつとはなしにそんな気持ちになるのだった。夫人の言葉の内容にそれだけの説得力があるわけでは必ずしもなかったが、その言葉のはしばしからにじみ出るものが、かれのいらだつ神経をやわらかになでてくれたのである。
 ストーヴは底ごもるような音をたて、鉄の膚《はだ》をほの赤くぼかしており、窓外の木々は雪をかぶってどっしりと重かった。
「ぼくには、落ちつくということ、まだよくわからないんです。」
 次郎は、かなりたって、ぽつりとそんなことを言った。それはしかし、朝倉夫人に対する抗議《こうぎ》ではむろんなかった。また、かれの深い苦悶《くもん》の表白であるとも言えなかった。うら悲しいような、甘《あま》えたいような気持ちが、自然にそんな言葉となって、かれの唇《くちびる》をもれたといったほうが適当だったのである。

   一〇 異変(※[#ローマ数字2、1−13−22])

 田沼《たぬま》先生が、雪をけって自動車をのりつけたのは、もう小川先生の講義もすみ、食事当番の塾生《じゅくせい》たちが広間に食卓《しょくたく》の準備をはじめていたころであった。次郎が胸をどきつかせながら出迎《でむか》えると、先生は、まだ靴《くつ》もぬがないうちに言った。
「ちょうど、昼になってしまったが、私のぶん、食事の用意ができるかね。」
「はい、用意しておきました。」
「用意しておいた? 私が来るの、わかっていたのかい。」
「ええ、お宅にお電話をしましたら、こちらにお出《い》でになるようにおっしゃったものですから。」
「ふうむ――」
 と、先生が、けげんそうに次郎の顔を見ているところへ、朝倉先生がやって来て、
「お待ちしていました。雪の中を大変だったでしょう。」
「いや――」
 と、田沼先生は次郎にオーバーをぬがせてもらいながら、ちょっと声をひそめて、
「東京のさわぎ、もうこちらにもわかっているんですね。」
「ええ、あらまし。……大学にかよっている、本田君の兄から電話で知らしてくれたものですから。」
「なるほど。……ここだけは別天地《べってんち》だなんて考えるわけには、いよいよいかなくなって来ましたかね。はっはっはっ。」
 朝倉先生も笑った。が、すぐ真顔になり、
「実は小川博士もお待ちかねです。今日はちょうどご講義の日でお見えになっていたものですから。」
「ああ、そう。それは好
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