もしかたがない。……すべては、どうなるかでなくて、どうするかだ。友愛塾は友愛塾として、できるだけのことをすればいい。」
 それから、次郎のほうを向いて、
「今日は幸い小川先生もおいでくだすっているし、ご都合がついたら、午後までお残り願おう。塾生には、休みの時間が来ても、そのことについては何も話さないでおいてくれたまえ。いいかげんな話をして、ただ気持ちを動揺《どうよう》させるだけでもつまらんからね。話すときには、ゆっくり時間をかけて話すほうがいいんだ。それに、恭一君からの電話だけでは、どこいらまでが確実だかもわからんし。……そうだ、さっそく田沼先生におたずねしてみよう。先生には、もっとくわしいことがわかっているにちがいない。すぐお宅に電話をかけてお出先をきいてくれたまえ。」
 次郎はいそいで事務室に行ったが、まもなくもどって来て、
「田沼先生は、今朝早くお出かけになって、お行先は、わからないそうです。しかし、お出かけの時に、昼ごろまでには友愛塾に行くから、必要があったら、そのほうに連絡《れんらく》するように、とお言い残しだったそうです。」
「この雪に、ご自分でこちらにお出《い》でになるのか。ふむ、そうか。」
 二人は、いよいよ事件の重大さを直感したらしく、だまって眼を見あった。
「では、君は今日はなるだけ事務室か、君の室かにいて、電話に気をつけていてくれたまえ。」
 次郎は、それで自室に引きとったが、机の上には、相変わらず「歎異抄」がひらかれたままだった。かれは、しかし、今はふしぎにそれに心をひかれなかった。東京の異変でゆすぶられたかれの血は、「歎異抄」とは別の世界に流れ出ようとしているかのようであった。自己|沈潜《ちんせん》の深い洞穴《ほらあな》から、急にあれ狂《くる》う嵐《あらし》の中におどりだして、胸を張り大声をあげて叫《さけ》ぼうとしている自分自身を、かれはかれの全身に感じていたのである。
 かれの眼には、宮城をとりまいて所々に配備されている機関銃《きかんじゅう》や、大砲《たいほう》や、歩哨《ほしょう》や、また、総理|官邸《かんてい》の付近に、雪を血に染めて横たわっている人間の死体や、それらの間を何か声高《こわだか》に叫びながら疾駆《しっく》している若い乗馬将校の姿などが、つぎからつぎに浮《う》かんで来た。
 かれは落ちついてすわっていることさえできなかった。せまい室内を歩きまわりながら、暗殺された重臣たちの顔ぶれを想像して見た。それは、しかし、かれには皆目《かいもく》見当がつかなかった。また、かれは、全国の軍隊が真二つに割れ、敵味方になって弾丸《たま》をうちあう場合のことを想像してみた。内乱などということは、外国のできごとだとしか考えていなかったかれにとっては、それは全く思慮《しりょ》にあまることだった。まさか、という気持ちと、今にもそこいらから銃声がきこえて来そうに思える気持ちとの間に、かれはただ、うろうろするばかりであった。
 友愛塾の運命、ということが、しだいにかれの頭をなやましはじめた。それは内乱というとほうもない大きな事態の下では、まるで問題にならない些事《さじ》のようにも考えられたし、また、その反対に、そういう事態になるような国情だからこそ、かえって軽視できない、というふうにも考えられた。しかし、いずれにせよ閉鎖《へいさ》の運命はまぬがれないだろう。内乱状態が間もなく鎮定《ちんてい》されるにせよ、ながくつづくにせよ、また、いずれの派閥《はばつ》によって勝利が占《し》められるにせよ、政治の全権が軍の手に握《にぎ》られる以上、こうした種類の青年指導機関が、無事にその存在を許されるはすがない。それどころか、危険はあるいは、田沼先生や、朝倉先生や、小川先生などの身辺にまで及《およ》ぶかもしれないのだ。
 かれは、そこまで考えると、田沼先生が、今日雪をおかしてさっそくここにやって来られる意味がわかるような気がして、いよいよ落ちつけなくなって来た。そんなことは考えすぎだ。ぱかな! と何度か自分を叱《しか》ってみたが、気持ちはどうにもならなかった。
 講義が中休みになったらしく、廊下を歩く塾生たちのにぎやかな笑い声がきこえた。次郎の耳には、それが変にうつろにひびいた。そのうちに、二三名の塾生が事務室にはいって来て、すみの机で謄写版《とうしゃばん》をすりだした。――塾生たちは、分担の仕事の種類によっては、そのための特別の時間を与《あた》えられていなかったので、それを間にあうように果たすためには、どんなわずかな休み時間をでも活用することを怠《おこた》るわけには行かなかったのである。
 謄写版をすりながら、かれらは話しだした。最初に口をきったのは、たしか青山敬太郎だった。
「農村の科学化とか共同化とかいうことも、あんなふうに話
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