、電話なんか通じなくなるようなことになるかもしれないがね。」
 そう言われて、次郎はぎくりとしたが、しいて自分をおちつけながら、
「あぶないところに行くのはよせよ。こちらは、そう一刻を争って知らせてもらう必要はないんだから。」
「必要がないことなんかあるもんか。さっきも大沢君と話したことだが、状況次第では、塾は早く閉鎖《へいさ》したほうがいいかもしれんよ。ぐずぐずしているうちに、とんでもないことにならんとも限らんからね。」
「塾が? どうして?」
「どうしてって、友愛塾は自由主義精神の砦《とりで》なんだろう。第一番に砲撃《ほうげき》されるよ。」
 恭一の言葉の調子には、じょうだんめいたところがあった。次郎は、しかし、それを全くのじょうだんだとして受け取る余裕《よゆう》がなかった。かれの眼には、もう荒田老《あらたろう》や平木|中佐《ちゅうさ》の顔がちらつき、二人と東京の異変とが無関係なものとは考えられなかったのである。
 かれは、電話をきると、すぐ塾長室に飛んで行って、きいたままを朝倉先生に報告した。朝倉先生も、さすがに愕然《がくぜん》として、しばらくは口をきかなかったが、
「とうとうそんなことにまでなってしまったのか。おそろしいものだね。徒党《ととう》の争いというものは。」
 と、にぎっていたペンをなげすてるように机の上において、腕《うで》をくみ、眼をつぶった。
 次郎は、先生が徒党の争いといったのを、政党の争いという意味にとった。
「やはり政党の腐敗《ふはい》に憤激《ふんげき》してのことでしょうか。」
「それもあるだろう。それはたしかに事をおこす名目《めいもく》にはなる。しかし、今度のことは、おそらく陸軍内部の派閥《はばつ》争いに直接の原因があるだろう。」
「陸軍の内部にそんな争いがあっていたんですか。」
「挙国一致《きょこくいっち》」という合い言葉の本家本元《ほんけほんもと》が軍隊であり、そしてその合い言葉で、国民を刻一刻と、のっぴきならぬ羽目に追いたてているのがこのごろの軍人であるということ以外に、軍隊の裏面について何も知らなかったかれとしては、それは無理もない質問だったのである。
「去年の八月だったか、永田鉄山中将が、軍務局長室で相沢中佐に暗殺された事件があったね、覚えているだろう。」
「ええ、覚えていますとも。まだ裁判はすんでいないでしょう。」
「あれなんかも、陸軍の派閥争いの一つの犠牲《ぎせい》だよ。裁判がややこしくなるのも無理はない。」
 朝倉先生は、それから、陸軍内部の近年の動きについて、あらましの説明をしてきかせたが、それによると、全陸軍の主脳部が統制派と皇道派《こうどうは》の二派にわかれて、醜《みにく》い勢力争いをやっている、というのであった。
「何より恐《おそ》ろしいのは、両派の巨頭連《きょとうれん》が、自分たちの勢力を張るために、青年将校の意を迎《むか》えることに汲々《きゅうきゅう》として、全軍に下剋上《げこくじょう》の風を作ってしまったことだ。これがほかの社会だと弊害《へいがい》があると言っても程度が知れているが、軍隊の下剋上だけは全く恐ろしいよ。鉄砲《てっぽう》をぶっ放す兵隊を直接|握《にぎ》っているのは下級将校だからね。しかもその下級将校が、単純な頭で、勇ましく鉄砲をぶっ欲しさえすれば国力はいくらでも増進するように考えて、盛《さか》んに政治・外交・経済を論ずる。それに将軍連が心ならずも調子を合わせ、正論を圧迫《あっぱく》してとんでもない国論を作ってしまう。こうなると、まるでめちゃくちゃだよ。今度の事件にしたって、おそらく青年将校が主動者になっていると思うが、それも、もとをただせは巨頭連の派閥争いが原因さ。こんなふうで、日本も結局行くところまで行くのかな。」
 朝倉先生は、そう言って、深いため息をつき、窓の外に眼をやったが、しばらくして、
「日本では、雪の日によく血なまぐさい事件が起こるものだね。四十七士の討ち入り、桜田門外《さくらだもんがい》の変、……しかし、今度の事件ほど暗い運命的な感じのする事件はないね。何だか、国民全体が浅はかな野心《やしん》のためにくずれて行くような気がするよ。」
 朝倉先生は、これまで、どんな悲観的な問題について話しても、きく人の気持ちまでを陰気《いんき》にさせるようなことはなかった。先生の言葉の奥《おく》には、いつも強い意志が動いていたからである。しかし、今日はそうでなかった。次郎は、きいていて、くずおれそうな気持ちになり、雪の反射で異様に明るい室の空気の中に、しょんぼりと眼をふせていた。
 すると、朝倉先生は、急に自分をとりもどしたように、椅子《いす》から立ちあがり、窓のほうにあるきながら、言った。
「しかし、できてしまったことは、できてしまったことだ。悔《くや》んで
前へ 次へ
全109ページ中72ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング