ょう》の自覚であり、そしてその結果としての自力の絶対否定であった。「善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり」とか、「とても地獄《じごく》は一定《いちじょう》すみかぞかし」とか、「親鸞は弟子《でし》一人も持たずさふらふ」とか、「父母の孝養《こうよう》のためとて、念仏一返にても申したること未《いま》ださふらはず」とか、そういった一途《いちず》な言葉に接するごとに、かれはおどろきもし、むちうたれもし、また同時に救われたような気もするのだった。
 こうして、かれは「歎異抄」に親しむにつれ、これこそ人間の知性と情意との一如的《いちにょてき》燃焼《ねんしょう》であり、しかも知性をこえ、情意をこえた不可思議な心境の開拓《かいたく》を物語るものだ、というふうに考えるようになり、自分みずからその心境に近づくために、いよいよそれに親しむようになって来ていたのだった。ことにこのごろのように、内心の動揺《どうよう》がはげしくなり、自己嫌悪の気持ちが深まって来ると、その中の一句一句が実感をもって胸にせまり、もう一ときもそれが手放せなくなって来たのである。
          *
 二月二十四日は日曜だった。昨日の正午ごろからふり出した雪は、まだやんでいなかった。やむどころか、朝のラジオは、近年まれな新記録を出すかもしれないとさえ報じた。寒さもことのほかきびしかった。そのために、昨夜までは外出を計画していた塾生たちも、一人残らずそれを断念し、めずらしくみんなそろって日曜の一日を塾内ですごすことになったのである。
 次郎も、実をいうと、内々その日の外出を、計画していた一人だった。かれは「歎異抄」に親しんでいるうちに、しだいに自分のこれまでの虚偽にたえられなくなり、いっそ自分から恭一の下宿をたずね、思いきって何もかも打ちあけてしまいたい、という気になっていたのである。むろん、かれは、自分が外出することをだれにももらしてはいなかった。それをもらしたために、塾生たちに道案内をせがまれたりして、行動の自由を束縛《そくばく》されてはならないと思ったからである。しかし、いよいよその日になると、かれも結局外出を思いとまるよりしかたがなかった。むりに出ようとすれば出られないほどの深い雪には、まだなっていなかったが、塾生全部が思いとまっているのに、めったに外出したことのない自分が、しいてそんな日を選んで外出するからには、少なくとも朝倉先生夫妻だけには、十分|納得《なっとく》の行く理由を述べて断わる必要があった。しかし、その理由を正直に述べる気にはまだどうしてもなれなかったし、かといって、うそをつくのは、このごろのかれとしては、なおさら苦しいことだったのである。
 朝倉先生夫妻は、これまで、日曜には、朝の行事をおわり、朝食をすましたあとは、すぐ空林庵《くうりんあん》に引きとり、読書をしたり、書きものをしたりしてすごす習慣だったが、居残《いのこ》りの塾生の中には、よく個人的問題について相談をもちかけて行くものがあり、先生夫妻も、喜んでそれを迎《むか》えるといったふうだったので、そうした塾生が三四人もあると、それで一日が終わるというようなことも決してめずらしくはなかった。今日は、しかし、朝食のあとで、全員居残りだときくと、朝倉先生は、夫人と顔を見合わせ、
「じゃあ、私たちも居残りだ。何か話がある人は塾長室にやって来たまえ。」
 と言って、すぐ塾長室にはいり、何か書きものをはじめたのだった。
 こうして、雪は塾生たちから外出の楽しみを奪《うば》ったが、それは必ずしもかれらの気持ちを冷たくしたとばかりは言えなかった。考えようでは、何のきまった行事もない、最も自由な日を選び、塾長夫妻をはじめ、全員を一堂にとじこめることによって、みんなの心をいっそうあたためてくれたとも言えるのであった。その証拠《しょうこ》には、塾生たちは、だれがだれを誘《さそ》うともなく、いつの間にか一人のこらず広間に集まり、朝倉先生夫妻を中心に、のびのびと話しあったり、かくし芸を披露《ひろう》したり、友愛塾|音頭《おんど》を踊《おど》ったりしていたのである。
 次郎も、むろん広間に顔を出していた。そして、オルガンをひくとか、そのほか、こんな場合にかれでなくてはできないような役目は、いつもと変わりなく引きうけた。しかし、それがこの日のかれの気持ちにぴったりしていなかったことは、いうまでもない。かれは、ただ、自分の本心をだれにも見すかされないために、みんなと調子をあわせていたにすぎなかった。そして、そうした虚偽がさらに新たな苦汁《くじゅう》となってかれの胸の中を流れ、つぎからつぎに不快な気持ちをますばかりだったのである。
 虚偽をにくむ心は尊い。しかし、人間が徹底して虚偽から自由であることは、ほとんど不可能に近い。この故
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