《ゆえ》に、虚偽をにくめばにくむほど、人間の苦しみは深まるものである。次郎にとって、この日は終日、そうした意味での苦しみをなめる日であったとも言えるであろう。かれは、実際、開塾以来の、いや、かれ自身の気持ちとしてはもの心ついて以来の、最もいやな日を、この雪の日にすごしたわけだったのである。
翌日も雪空だった。ときどき晴れ間を見せたが、雪は解けるより積もるほうが多かった。塾生たちは戸外《こがい》の作業が全くできないために、やはりとじこめられた形だった。しかし、次郎にとっては、昨日の日曜にくらべるとはるかに楽な日だった。それは予定の行事を予定に従ってすすめて行けばよかったし、そして、それだけのことは、自分の心をいつわっているという不愉快《ふゆかい》な自覚なしにもできることだったからである。
雪のせいか、その日の午後の郵便物は二時間もおくれて、日暮《ひぐ》れ近くに配達された。ちょうど夕食まえの休み時間で、次郎はその時、何かの用で塾長室にいたが、用をすまして出て来ると、廊下《ろうか》を急いでいた郵便物当番が声をかけた。
「本田さん、あなたにも来ていましたよ。お部屋にほうりこんでおきました。」
次郎は胸をどきつかせながら、自分の室にかけこんだ。しかし、そこにかれが見いだしたものは、つめたい畳《たたみ》の上にぴったりとくっついている一枚の葉書にすぎなかった。しかもそれは、ひろいあげて見るまでもなく恭一の手跡《しゅせき》だったのである。文面にはこうあった。
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「重田|父子《おやこ》は、昨日曜夜の夜行で退京した。二人の在京中、一度君にも出て来てもらいたいと思っていたが、ついにその機会が見つからなかった。
君の手紙は、むろん見た。しかし、今はすべてを白紙にかえしたい。適当な機会が来るまで、僕《ぼく》はあのことについては沈黙《ちんもく》する。同時に君にも沈黙してもらいたい。ただし、これは僕ら二人の間だけのことで、他に対しての発言は自由だ。
手紙を書くと、くどくなると思ったので、わざと葉書にした。以上。」
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重田は道江《みちえ》の姓《せい》である。次郎は、読みおわると、つめたい葉書の中にこめられた兄の情熱と意志とを感じた。また、おぼろげながら、その情熱と意志との方向をも察することができた。しかし、それはすこしもかれの心を喜ばせなかった。それどころか、かれは恭一に対して一種の敵意に似たものをさえ抱《いだ》きはじめていた。自分はさらしものにはなりたくない。そういった気持ちだったのである。
かれは、すぐ、机のひきだしから一枚の新しい葉書をとり出して、恭一あての返事を書いた。ペン先にやけに力がこもった。
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「はがき見た。何のことやらわからぬ。沈黙はむろん結構。的なきに矢を放つようなことを君のほうでやりさえしなければ、僕ははじめから沈黙しているのだ。前便再読をのぞむ。これだけいって、いよいよ沈黙しよう。」
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かれはつめたく微笑《びしょう》しながらペンをおいた。しかし、それと同時にかれの眼をひいたものがあった。それは机の上に開いたままになっていた「歎異抄」だった。
かれは、しばらく、今書いたばかりの葉書と「歎異抄」とを見くらべていたが、やにわにその葉書をわしづかみにし、もみくちゃにしてにぎりしめ、そして、にぎりしめたこぶしの上に顔を突《つ》っ伏《ぷ》せた。
こうして、この日も、次郎にとっては、決して昨日より楽な日だったとは言えなかったのである。
翌二十六日は火曜日だった。雪は昨夜もふりつづいたらしく、赤松《あかまつ》がずっしりと重く枝《えだ》をたれており、くぬぎ林が、雪だるまをならべたようにまるまっていた。
この数日は、門から玄関《げんかん》までの道の雪をかくことが、塾生たちの朝食後の仕事になっていたが、今日は、まだかき終わらないうちに、外来講師《がいらいこうし》の小川先生が、ゴム長をはいてやって来た。たいていの外来講師は、下赤塚《しもあかつか》駅から、塾《じゅく》で特約してあるタクシーに乗って来るのだったが、小川先生はこの村に住宅を構えているので、いつも徒歩だったのである。
次郎は、外来講師の中のだれよりも小川先生に親しみを感じていた。先生は農学博士で、日本の村落史研究の権威《けんい》であり、友愛塾では、毎回その研究を背景にして、新しい農村協同社会の理想を説くのだったが、色の黒い、五分|刈《が》り無髯《むぜん》の、ごつごつしたその風貌《ふうぼう》は、学者というよりは、鍬《くわ》をかついでいる百姓《ひゃくしょう》の親爺《おやじ》さんといったほうが適当であり、講義の調子も、その風貌にふさわしく、訥々《とつとつ》として渋《しぶ》りがちだった。しかし、そ
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