たいどこから湧《わ》いて来るのか。心のどこにそんな余地があり、そんなすき間があるのか。――
考えてみると、道江の問題について、これまで自分のとって来た態度のすべては、要するにお体裁《ていさい》であり、偽善であり、下劣《げれつ》な自尊心の満足であり、劣等感《れっとうかん》をごまかすための虚勢《きょせい》でしかなかったのだ。何というなさけない自分だろう。
かれの反省の最後は、いつも、そうしたところに落ちて行くのだった。そして、それから先には一歩も進むことができず、相変わらず恭一から手紙が来ないのが気になり、またそれを反省しては、ますますみじめな気持ちになるばかりだったのである。
とりわけ、かれが自分をなさけなく思い、ほとんど絶望的な気持ちにさえなったのは、ふと恭一に対してつぎのような疑いを抱《いだ》いたときであった。――兄は、兄自身のためにぼくの気持ちをさぐってみたにすぎないのだ。ぼくの返事を見て、今ごろはおそらくほくそ笑《え》んでいることだろう。――
もっとも、この疑いはほんの一瞬《いっしゅん》だった。かれはいそいでそれを打ち消したし、疑いそのものが、あとまでながくかれを苦しめたわけではなかった。しかし、かれは、そうしたいやしい疑いがかりそめにもしのびこんで来る余地のある自分の心が、あまりにもなさけなかった。かれは、その時、事務室で、郵便物当番を手伝って、配達された郵便物を各室ごとによりわけていたのだったが、その当番に顔を見られるのが苦しくなり、いきなり自分の室にかけこんだために、かえって当番に目を見張らしたほどであった。
かれが、このごろ、だれの眼《め》よりもおそれたのは、大河無門の眼だった。かれは、むろん、大河が自分の心の中を見とおしているなどとは考えていなかった。どんなに洞察力《どうさつりょく》のある大河でも、こないだの日曜に恭一と道江とがたずねて来たおり、いっしょに飯を食ったり、わずかの時間話したりしただけで、それができるとは思えなかったのである。しかし、かれが恭一に返事を出したその日に、大河がたまたま浴室で持ち出した恋愛論《れんあいろん》は、期せずしてかれに対する大きな人間的|抗議《こうぎ》となっていた。そして道江に対するかれの恋情が深ければ深いほど、また自分という人間がなさけなく思えて来れば来るほど、この抗議がきびしく胸にこたえ、大河と顔をあわせるのが息ぐるしくなり、その眼がこわくなって来るのだった。こんな時こそ、自分から進んで大河にぶっつかり、その助言を求むべきではないか、という気もして、何度か、かれを自分の室に招き、二人きりで、話してみたいと思ったこともあったが、いざとなると、どうしてもその勇気が出なかったのである。
朝倉先生夫妻に対しても、いくぶん息ぐるしさを感じないではなかった。しかし、仕事の上でどうしても話しあわなければならないことが多かったので、いつもいつも二人を避《さ》けてばかりはおれなかった。それに、二人と言葉をかわしていると、やはり何とはなしに慰《なぐさ》められるような気もして、いったん話しだすと、あんがい尻《しり》がおちつくのだった。しかし、話したあとがいつもいけなかった。というのは、自分の態度に何か不自然なところがあり、それが二人の眼にとまったのではないか、と、それがいやに気になったからである。
かれがこの数か月間、最も親しんで来たのは「歎異抄《たんにしょう》」で、今度の開塾《かいじゅく》のすこし前ごろからは、すでに書いたように、毎朝まだ暗いうちに起きて、かならずその幾節《いくせつ》かを読むことにしていたのであるが、ことにこの数日間は、ひまさえあると自分の室にとじこもり、くりかえしそれに眼をさらしては、何か考えこむといったふうであった。
かれが最初「歎異抄」というものを読んでみる気になったのは、実は、それが宗教の古典として非常に有名であるというだけの理由からにすぎなかった。しかし、一度それに眼をとおすと、これまでの読書の場合とはまるでちがった魅力《みりょく》をそれに覚えた。そして読めば読むほど、底の知れない苦悩と、限りなく清澄《せいちょう》な心境とに、同時に誘《さそ》いこまれて行くような気がするのだった。むろん「弥陀《みだ》」だの、「念仏」だの、「往生《おうじょう》」だのという言葉は、かれにはまだ、十分には理解もされず、気持ちの上でもぴったりしない言葉であった。その点からいって、かれは、おそらく、親鸞《しんらん》の他力信心《たりきしんじん》をそのまま素直《すなお》に受けいれていたとは言えなかったであろう。しかし、それにもかかわらず、その中には無条件にかれの胸にくい入る何ものかがあった。それは、親鸞の徹底《てってい》した真実性であり、つきつめた自己反省による罪悪深重《ざいあくしんち
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