考えなおそう。)
自転車が動きだした瞬間《しゅんかん》、かれはそう決心した。そして、手をふりあげて郵便物当番の名を呼んだ。かれは思いきり大声をあげたつもりだった。しかし、その声は、咽《のど》の奥《おく》から何かの力で引きもどされたように、変なうなり声になっただけだった。郵便物当番は、むろん、ふり向きもしなかった。かれは、玄関をはなれると、くぬぎ林のまえの広場を斜《なな》めに、正門のほうに向かって自転車の速力をはやめた。
次郎には、もう一度、大声をあげてそれを呼びとめるいとまがなかった。いとまがなかったというよりも、心のゆとりがなかったといったほうが適当であった。かれは、気ぬけがしたように、ぽかんとしてそのあとを見おくっていた。そして、自転車が正門を出て見えなくなると、急にがくりと首をたれ、両腕で本の幹を抱《だ》いた。
いっさいは終わった。道江の問題に関するかぎり、いっさいは終わった。自分のとった方法が賢明《けんめい》であったにせよ、おろかであったにせよ、これでほんとうにいっさいは終わったのだ。と、いったんはあきらめたようにそう思うのだったが、しかし、ながいこと闇《やみ》にうずくまっていた自分のまえに思いがけなく一つの燈火《とうか》がともされたのに、その燈火の正体をよくつきとめもしないで、自分はあわててそれを吹《ふ》き消してしまったのではないか、と思うと、やり場のないくやしさと、さびしさとが、胸の底からつきあげて来るのだった。
「どうしたんです。気分がわるいんじゃありませんか。」
だしぬけに木の根もとから声をかけたものがあった。大河無門の声だった。大河は枝を運ぶ役割にまわっていたのである。
次郎はぎくりとした。大河無門の声が、この時ほど次郎の耳に気味わるく響《ひび》いたことは、おそらくこれまでにもなかったことであろう。
「いいえ、何でもないんです。……鋸屑《おがくす》が目にはいったような気が、ちょっとしたもんですから。」
次郎は、そう言って、わざわざ目を手の甲《こう》でこすった。しかし、つぎの瞬間には、そんなごまかしをやった自分が、たまらなくいやになり、思わず肩《かた》をすくめた。
「おりて来ませんか。鋸屑がはいっているなら、はやくとったほうがいいですよ。ぼく、見てあげましょう。」
「ええ、もうだいじょうぶです。」
次郎は、目をぱちぱちさせながら、大河を見おろした。大河は、まだ心配そうな顔をして次郎を見あげている。次郎は、大河の顔に例の笑いが浮《う》かんでいなかったので、ほっとした気持ちだった。
「ほんとうにだいじょうぶです。何でもなかったんです。」
次郎はもう一度そう言って、すぐ鋸をひきはじめた。
大河がそこいらにあった木の枝を運び去ったあと、次郎は、まるで質のちがった二つのにがい味を、同時に心の中で味わいながら、黙々《もくもく》として鋸をひいた。永久に恋《こい》を失ったということも、にがい味のすることだったが、弱い人間として大河無門の前に立たされているということも、それにおとらず、にがい味のすることだったのである。
三時になると、みんなは草っ原に腰《こし》をおろして、お茶をのみ、ふかし芋《いも》を食った。一人あたり一日五十銭の食費の中から、こうした場合のおやつ代をひねり出すのは、炊事部《すいじぶ》に任された権限なのであった。
郵便物当番も、もうむろんそのころには帰って来て、仲間に加わっていた。かれは、芋を頬張《ほおば》りながら、みんなに今日の発信数と、これまでの累計《るいけい》とを報告したあとで、言った。
「封書だけで言うと、今日がレコードだったよ。故郷をはなれて二週間近くにもなると、そろそろ綿々たる手紙が書きたくなるらしい。ことに今日の手紙には異性あてのが多かった。それも差出人《さしだしにん》とは姓《せい》のちがった宛名《あてな》が多かったようだ。」
すると、にぎやかな笑い声にまじって、いろんな野次《やじ》がとんだ。
「時局がら、憂《うれ》うべき傾向《けいこう》だ。査問会《さもんかい》をひらいたら、どうだい。」
「しかし、いったい、郵便物当番に、異性あての手紙が何通だなんていうことまで調査する権限があるのかね。」
「まさか開封《かいふう》して見たんではないだろうな。」
「とにかく、発信人の名前ぐらいは公表してもよさそうだ。」
「これからは、各人別に異性あての手紙の累計をとるべきだよ。」
そういった調子である。
朝倉夫人も、こんな時間には、かならず顔を出し、茶をついでまわったりする習慣になっていたが、一通り野次がとんでしまって、笑い声がおさまったころ、夫人は、みんなの顔を見まわしながら、真顔《まがお》になってたずねた。
「それはそうと、みなさんの中に、もう奥《おく》さんがおありの方は、どなた?」
前へ
次へ
全109ページ中64ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング