みんなにやにや笑っているだけで、返事がない。
「あたしには、おおよそわかりますわ。あててみましょうか。飯島さんはおありでしょう?」
 飯島は、めずらしく子供のようにはにかみながら、しばらく頭をかいたあとで、こたえた。
「あります。」
 みんなが拍手《はくしゅ》した。拍手にまじって、だれかがとん狂《きょう》な声で叫《さけ》んだ。
「小母《おば》さんはさすがに体験家だなあ。」
 それでまた笑いが爆発《ばくはつ》した。朝倉夫人も笑いながら、
「大河さんは?」
 みんなは、飯島のときよりも興味深そうな目をして、一せいに大河を見た。大河は、しかし、近眼鏡の奥《おく》に、どこを見るともなく目をすえ、とぼけたようにこたえた。
「ありませんね。うっかりして、恋《こい》をしたこともまだないんです。だから、ぼくは入塾《にゅうじゅく》してから一度も手紙を書いたことがありません。さびしい人間ですよ。」
 みんなは腹をかかえて笑った。中には、たべかけた芋を吹《ふ》き出したものもあった。朝倉先生も夫人も、むろん笑った。ただ次郎だけは、どうしても笑えなかった。かれには、そんなことをいった大河がいよいよ気味わるく感じられたのだった。
 かれは、ふたたび作業がはじまるまで、とうとうその場の空気にとけこむことができず、まともに人の顔を見ることさえしなかった。それがいよいよかれを苦しめた。自分はもう、友愛塾の中の人間ではない。そんな気がしみじみとするのであった。
 予定の作業が全部おわったのは五時近いころだった。作業のあとは入浴の時間だった。浴室はかなり広かったので、一度に二十人ぐらいははいれた。朝倉先生も、次郎も、塾生たちと裸《はだか》の皮膚《ひふ》をふれあい、おたがいに背中を流しあうのだった。
 着物を着ている時の顔と、まる裸になった時の顔とは、まだ十分知りあわないうちは、とかく一致《いっち》しにくいものである。そのため、はじめのころは、湯ぶねにひたりながら、おたがいに名前をたしかめあうというようなこともよくあった。しかし、このごろでは、もうそんなことはほとんどなくなっている。それどころか、おたがいに渾名《あだな》を呼びあうことさえ、すでにはやりだしているのである。そして、その渾名の中には、入浴時のある発見や偶然《ぐうぜん》のできごとを機縁《きえん》にして命名《めいめい》されたものも少なくはなかった。たとえば「河馬《かば》」とか、「仁王《におう》」とか、「どぶ鼠《ねずみ》」とか、「胸毛《むなげ》の六蔵」とか、いったようなのがそうであった。
 大河無門も、入浴中に渾名をもらった一人だった。かれの眼は、近眼鏡をはずすと、いつもの光を失い、とろんとした眼になるのだったが、かれはその眼を半眼《はんがん》にひらき、周囲のさわがしさとはまるで無関係に、湯ぶねのすみに、黙然《もくねん》として首だけを出していることがよくあった。ある日、かれのそうした様子を見ていた茶目な一塾生が、四月八日の甘茶《あまちゃ》だといって、タオルにふくませた湯を、かれの頭上にたらたらとかけてやった。かれは、しかし、それでも身じろぎ一つせす、ただしずかに眼をつぶっただけで、その湯を最後までうけていた。それ以来、「お釈迦《しゃか》さま」というのが、かれの渾名になってしまったのである。
 今日も大河は、その黙然たる姿でしばらく湯にひたっていたが、急に、何と思ったか、そのとろんとした眼で、すぐとなりにいた塾生の顔をのぞきこみながら、にこりともしないでたずねた。
「君は恋愛《れんあい》の経験がありますか。」
 たずねられたのは青山敬太郎だった。かれは面くらったように、眼を見張って大河の顔を見ていたが、やがて、くすぐったそうに笑いながら、
「ありませんね。」
「ほんとうにありませんか。」
 大河は真顔だった。青山も真顔になりながら、
「あれば、どうなんです。」
「ちょっとたずねてみたいことがあるんです。」
「どんなことでしょう。」
 大河は、しばらくだまっていたが、
「恋愛の経験のない人にたずねても、答えが出るはずがありません。よしましょう。」
 青山は苦笑して、
「実は、ないこともないんですがね。」
「ないこともないぐらいな恋愛では、しようがない。」
 大河は、そう言うとまたもとの黙然たる姿勢にかえり、それっきり口をききそうになかった。すると、湯ぶねの中で、二人の問答をおもしろそうにきいていたほかの塾生たちの一人が、ふざけた調子で言った。
「ぼくは、目下《もっか》命がけの恋をやっている最中なんですがね。」
 みんながどっと笑った。大河は、しかし、そのほうをふりむこうともしなかった。
 朝倉先生は、その時、たたきで塾生の一人に背を流してもらっていたが、それが終ると、湯ぶねの中にはいって来て、言った。
「大河君
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