、何かとくべつの意味があるような気がして、平気では受け答えができないのだった。
 そのあと、話は主として朝倉先生と恭一との間にとりかわされた。道江は、女の話相手を失って、口を出す機会が自然に少なくなったのである。次郎は、そうなると、いよいよ気がつまり、舌がこわばった。
 道江は、朝倉先生と恭一とが話している間に、たびたび次郎の顔を見て、何か話しかけたいような様子を見せた。次郎は、むろん、それに気がついていた。かれは、しかし、あくまでも眼を先生と恭一とのほうにそそぎ、熱心に二人の話に聞き入っているかのように装《よそお》った。
「ねえ、次郎さん――」
 と、道江が、とうとう身をすりよせるようにして、小声でいった。
「お手紙、どうして一度もくださらなかったの?」
 次郎はちらっと道江の顔を見たが、その眼はまたすぐ恭一のほうにそそがれていた。そして、かなり間をおいて、
「べつに用がなかったからさ。」
 と、ほかの人にきこえるのをはばかるような、ひくい声でこたえ、頬を紅潮《こうちょう》させた。
 まもなく朝倉夫人が玄関口までもどつて来て、言った。
「おひるは本館のほうに用意しておきますわ。あと三十分ほどでしたくができますけれど、それまでに、お二人に館内をご覧いただいたら、どうかしら。恭一さんも、まだ本館のほうはよくご存じないんでしょう。次郎さん、すぐご案内してくださいよ。」
 次郎はふすまを半分あけて夫人にこたえたが、むろん気はすすんでいなかった。かれは夫人の足音が消えると、恭一を見て、
「本館を見る? もうたいてい知っているだろう。」
「くわしくは知らないよ。いつも、塾生たちのじゃまをしてはいけないと思って、先生の室と、君の室よりほかには、はいったことがないんだ。」
「そうだったかな。」
 次郎は、そう言いながら、やはりぐずついていた。すると、朝倉先生が、
「恭一君はいつでも案内できるが、道江さんはそうはいかない。ぜひ見ておいてもらいたいね。案内するなら、早いほうがいいよ。午後になると、塾生たちが帰って来るかもしれないからね。」
 次郎は、それで、しかたなしに立ちあがり、二人を本館に案内した。案内したといっても、大して説明することもなかった。かれが口をきかないと、道江のほうから、何かと話しかけた。それがかれには気づまりだったが、まるで相手にならないわけにもいかなかった。
「次郎さんは、すっかり以前とはお変わりになったようね。」
「そうかな。」
「ご自分では、お変わりになったこと、お気づきにならない?」
「そりゃあ、中学時代とは、ちっとは変わっているだろうさ。もうそろそろ四年近くになるんだもの。」
「ちっとどころじゃないわ。」
「そうかな。」
 次郎は、うわの空らしくよそおって、そっぽを向いたが、つぎの瞬間には、ぬすむように恭一の顔をうかがっていた。
「あたし、今日は何だか次郎さんがこわいような気がしますわ。」
「こわい? どうして?」
「だって、おそろしく、かまえていらっしゃるでしょう? あたしなんか、まるで相手にならないっていうふうに。」
「そんな……」
 と言いかけたが、次郎の舌は、それっきり動かなかった。
「あたし、さっきから考えていますの。塾生活なんかなさると、自然そんなふうにおなりなのじゃないかしらって。」
 道江はひやかしているのか、腹をたてているのかわからないような調子で言った。それが、次郎の胸にはひどくこたえた。かれはそのあと、ろくに塾の説明もできなくなったのだった。
 しかし、よりいっそう大きな打撃《だげき》をかれにあたえたのは、一通り案内を終わって、最後にかれの居室《きょしつ》をのぞいたとき、それまでほとんど口をきかないでいた恭一が、まじまじとかれの顔を見つめながら言ったことだった。
「今日は、君、たしかにどうかしてるね。ぼくの眼にも、いつもと非常に違《ちが》っているように見えるよ。何か苦しんでいることがあるんじゃない? もしそうだったら、打ちあけて朝倉先生に相談するがいいじゃないか。むろん、ぼくでよかったら、いくらでも相談にのるがね。」
 次郎は、恥《は》ずかしさと腹だたしさとで、顔中が引きつるような気持ちだった。
「何でもないよ。」
 と、かれはおこったようにいって、すぐ二人を、食卓《しょくたく》の準備されている広間に案内した。
 食卓は、日ざしのいい窓ぎわに据《す》えられており、朝倉先生夫妻のほかに、大河無門がもう卓について、三人がはいって来るのを待っていた。
「大河さんがおひとりで居残《いのこ》っていらしって、お風呂に水をいれていただいていたものですから、ごいっしょにお食事をしていただくことにしましたの。」
 夫人は、次郎にそう言ってから、恭一と道江を大河にひきあわした。そのあとで、朝倉先生は微笑《びしょう
前へ 次へ
全109ページ中54ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング