した。」
 河瀬はにやにや笑っている。次郎は、自分がどんなおろかな問答をくりかえしているかには、まるで気がついていないらしく、
「今すぐ行くよ。」
 と、ぶっきらぼうに言って、窓をぴしゃりとしめた。
 かれは、しかし、容易に立ちあがろうとはしなかった。そして、机の上にあったはがきに、かなりながいこと眼をこらしていたが、いきなりそれをとりあげると、両手でもみくちゃにし、屑《くず》かごの中に投げこんだ。そのあと、やっと思いきったように、立ちあがるには立ちあがったが、それでもすぐには室を出ようとせず、うつろな眼を戸口に注《そそ》いだまま、立ちすくんでいた。
 かれが空林庵の玄関《げんかん》をはいったのは、それからおおかた、十分ほどもたったあとのことだったのである。
 先生の書斎《しょさい》からは、にぎやかな話し声がきこえていた。かれは、しいて自分をおちつけながら、玄関をあがり、書斎のふすまをあけたが、その瞬間《しゅんかん》、みんなの顔がピントのあわない写真のようにかれの眼にうつった。
「何かお仕事でしたの?」
 朝倉夫人がたずねた。
「ええ、……ちょっと。」
 次郎は、突っ立ったまま、どもるようにこたえた。
「めずらしいお客さまでしょう。」
「ええ。」
 次郎は、しかし、道江のほうは見ないで恭一に向かってわざとらしく、
「やあ。」
 と声をかけ、自分のすわる場所を眼でさがした。
「どうぞ、あちらに。」
 朝倉夫人に指さされた座ぶとんは、恭一と道江との間にはさまれていた。入り口に近いほうに夫人と道江、床《とこ》の間《ま》に近いほうに先生と恭一とが席を占《し》めていたのである。
 かれがまだ尻《しり》をおちつけないうちに、
「次郎さん、しばらく。」
 と、道江が座ぶとんを半分すべって、あいさつをした。
「やあ、しばらく。」
 次郎も、すぐあいさつをかえしたが、道江の顔をまともには見ていなかった。かの女《じょ》の羽織《はおり》や帯の色が、美しい雲のように、うずを巻いて、眼のまえに浮動《ふどう》するのが感じられただけだった。
「道江さんにお会いするのは、私も家内も今日がはじめてなんだよ。君のお父さんからのお手紙や何かで、お名前だけは、すこし前から存じていたんだがね。」
 朝倉先生が次郎に言った。次郎は、固くなって、
「はあ。」
 とこたえたきりだった。しかし、心の中では、父が朝倉先生にあてた手紙に道江のことを書いたとすれば、それは恭一との婚約《こんやく》に関係したことにちがいない。それ以外のことで、道江のことなんか書く必要はすこしもないはずなのだから、と思った。
「うちで、白鳥会の連中が先生の送別会をやった時には、道江さんもいたんじゃなかったかな。」
 恭一が道江にたずねた。
「あの日は、あたし、お台所でお手伝いをしていましたの。」
「お給仕には出なかった?」
「ええ、おばさんに出るように言われたんですけれど、あたし、とうとうしりごみしちゃって。……でも、あの時は、男の学生ばかり、三十人もならんでいらしったんですもの。」
「すると、先生がたのお顔も今日がはじめてなんだな。」
「そりゃあ、お顔だけは存じていましたわ。あのとき拝見したんですもの。」
「のぞき見したの? どこから?」
「はしご段のところからですわ。ほほほ。」
 みんなが笑った。次郎も笑ったが、苦しそうだった。何でもない会話ではあったが、そうした対話が、自分を中にはさんで、二人の間にすらすらと取りかわされるのをきいていると、次郎は平気ではいられなかったのである。
 そのあと、話は、そのころの思い出で、つぎからつぎに花が咲《さ》いた。共通の話題は、いつまでたってもつきなかった。次郎をのぞいては、だれもが雄弁《ゆうべん》だった。そして、次郎がとかくだまりこみがちになっても、それは全体の話の流れには何のさまたげにもならないかのようであった。
 道江の言葉づかいは、以前に変わらず素直《すなお》で、すこしも才走《さいばし》ったところがなかった。それが、かつては、次郎に道江を平凡《へいぼん》な女だと思わせた一つの理由だったが、今はまるでちがった感じだった。素直さが、そのまま知性的に高められて、この上もない美しい品格を作っているように思われたのである。かれは、その感じが深まるにつれ、恭一が上京以来しばしば、かの女のためにいろいろの本を選択《せんたく》して送ってやっていたことを思い出し、これまでに覚えたことのない、異様なねたましさを覚えたのだった。
 朝倉夫人は、話の途中《とちゅう》で、みんなの昼飯の用意をするために、本館の炊事場のほうに行ったが、行きがけに次郎に言った。
「これからどんなお話がでるか、よく覚えていてくださいよ。あとできかしていただきますから。」
 次郎には、夫人のそんな言葉までが
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